2011年08月09日
今日のバイボー(12)
「主の栄光が神殿の敷居から出て行って、ケルビムの上にとどまった。」エゼキエル10:18.
エルサレムの神殿を神の臨在が離れ去って行きました。
愛する者たちから離れていかなければいけない、主の心の痛みはいかばかりでしょう。
昨日のアジアキャンプで、宮古の瑞慶山先生が、宮古島版「いつくしみ深き」を歌って下さいました。
「慈しみ深き友なるイエスは~♪」
と始まる歌詞を宮古では
「カナス、カナス バンドゥス イエス~♪」
慈しむを宮古方言ではカナスだそうです。
沖縄ではカナサンです。
これは「悲サン」、「悲ス」と呼んだはずです。
古代の日本語にも似たような使い方があります。
日本では「慈しむ」と「悲しみ」が同じように使われていたと思われます。
愛が一番表現される時、それは深い悲しみとして現されるのかもしれません。
人間が罪を犯して、その罪に対して警告しても、聞き入れない人間。
神様はやもえずその人から離れます。
その離れていく痛み、それが慈しみと言えます。
私たちの心には聖霊が宿っています。
聖霊は私たちをカナス(慈しんで)います。
聖霊を傷つけないようにしたいものです。
エルサレムの神殿を神の臨在が離れ去って行きました。
愛する者たちから離れていかなければいけない、主の心の痛みはいかばかりでしょう。
昨日のアジアキャンプで、宮古の瑞慶山先生が、宮古島版「いつくしみ深き」を歌って下さいました。
「慈しみ深き友なるイエスは~♪」
と始まる歌詞を宮古では
「カナス、カナス バンドゥス イエス~♪」
慈しむを宮古方言ではカナスだそうです。
沖縄ではカナサンです。
これは「悲サン」、「悲ス」と呼んだはずです。
古代の日本語にも似たような使い方があります。
日本では「慈しむ」と「悲しみ」が同じように使われていたと思われます。
愛が一番表現される時、それは深い悲しみとして現されるのかもしれません。
人間が罪を犯して、その罪に対して警告しても、聞き入れない人間。
神様はやもえずその人から離れます。
その離れていく痛み、それが慈しみと言えます。
私たちの心には聖霊が宿っています。
聖霊は私たちをカナス(慈しんで)います。
聖霊を傷つけないようにしたいものです。
Posted by パスター・レイ at 11:39│Comments(0)
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