2010年04月04日
イースターメッセージ
「兄弟たち。私は今、あなたがたに福音を知らせましょう。
これは、私があなたがたに宣べ伝えたもので、
あなたがたが受け入れ、また、それによって立っている福音です。
また、もしあなたがたがよく考えもしないで信じたのでないなら、
私の宣べ伝えたこの福音のことばをしっかりと保っていれば、
この福音によって救われるのです。」1コリント15:1-2.
パウロのこの言葉があって、その後、福音について語っている。
「キリストは、聖書の示すとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、
また、葬られたこと、また、聖書に従って三日目によみがえられたこと、
また、ケパに現われ、それから十二弟子に現われたことです。」
コリントの教会の人たちの中で、
この福音の復活の部分を否定している人がいたようだ。
ギリシャ人は肉体を嫌悪する思想があり、
肉体の復活を認めたくない空気があったのかもしれない。
そんなコリントの人たちにパウロは
「キリストが復活されなかったのなら、
私たちの宣教は実質のないものになり、
あなたがたの信仰も実質のないものになるのです。」
復活は福音のコアな部分で、復活を信じなければ、
その信仰は無になってしまう。
ゼロ0にいくらかけてもゼロ0である。
そして、復活を信じるというその信仰が
復活の事実を認めるだけのものであるなら、
それだけでは、不十分である。
「あなたは、神はおひとりだと信じています。
りっぱなことです。ですが、悪霊どももそう信じて、
身震いしています。」ヤコブの手紙2章19節。
悪霊さんでも、それぐらいの事実は信じているというのだ。
だから、このレベルの信仰を越えなければいけない。
私たちが復活を信じる信仰は、2千年前の十字架で死んだ主が、
復活して、今も生きていて、私の中に働いてくださる。
ともに生きていてくださる、という関係にあるのだ。
「その永遠のいのちとは、彼らが唯一のまことの神であるあなたと、
あなたの遣わされたイエス・キリストとを知ることです。」ヨハネ17:3.
「あなたのお父さんってどんな人?」
そう聞かれて、子供が父の学歴とか、会社とか、役職とか
名刺を読むような紹介をしたら、それは寂しいでしょう。
「父は無口だけど、家ではこんななのよ。」
「厳しいけど、とてもやさしいとこがあるのよ」
知っているということは、関係を言う。
以前、ある夫妻が娘が高熱を出した時、
病院に行ったら、医者はただの風邪だと言って、薬を処方して終わり。
その両親は胸騒ぎというか、どうしても納得できず、
大きな病院で精密検査をしたところ、特殊な病気であることがわかった。
ほっておいたら、助からなかったという。
これも、関係から来る直感というか、相手を知るゆえのことである。
医者という専門家の他人と、医学の素人の親子では、
どっちが病状をわかっているんだろう?
関係が優るのである。
あるカウンセラーが虐待について話してくれた。
幼少の頃、ひどい暴力を受けた経験のある人をカウンセリングしたけど、
一番、傷が深いのがネグレクトだと言う。
ここでのネグレクトは無視のこと。
母親が、自分の言うとおりに子供がしなかったということで、
無視するわけだ。無視するという暴力(罰)を与えるわけです。
無視された子は、深い傷を負う。
無視は、その人の存在を殺すこと。
復活信仰を信じていると言いながら、ただ、その事実を認めただけで、
そのジーザスの存在、臨在を認めないなら、
その信仰は無になる。
復活信仰、それは関係を築くことである。
家に居る時、車を運転する時、一人でいると思っていないだろうか?
目には見えないが、ジーザスは臨在して、ともにいるのです。
「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。
神に近づく者は、神がおられることと、
神を求める者には報いてくださる方であることとを、
信じなければならないのです。」ヘブル11:6.
これは、私があなたがたに宣べ伝えたもので、
あなたがたが受け入れ、また、それによって立っている福音です。
また、もしあなたがたがよく考えもしないで信じたのでないなら、
私の宣べ伝えたこの福音のことばをしっかりと保っていれば、
この福音によって救われるのです。」1コリント15:1-2.
パウロのこの言葉があって、その後、福音について語っている。
「キリストは、聖書の示すとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、
また、葬られたこと、また、聖書に従って三日目によみがえられたこと、
また、ケパに現われ、それから十二弟子に現われたことです。」
コリントの教会の人たちの中で、
この福音の復活の部分を否定している人がいたようだ。
ギリシャ人は肉体を嫌悪する思想があり、
肉体の復活を認めたくない空気があったのかもしれない。
そんなコリントの人たちにパウロは
「キリストが復活されなかったのなら、
私たちの宣教は実質のないものになり、
あなたがたの信仰も実質のないものになるのです。」
復活は福音のコアな部分で、復活を信じなければ、
その信仰は無になってしまう。
ゼロ0にいくらかけてもゼロ0である。
そして、復活を信じるというその信仰が
復活の事実を認めるだけのものであるなら、
それだけでは、不十分である。
「あなたは、神はおひとりだと信じています。
りっぱなことです。ですが、悪霊どももそう信じて、
身震いしています。」ヤコブの手紙2章19節。
悪霊さんでも、それぐらいの事実は信じているというのだ。
だから、このレベルの信仰を越えなければいけない。
私たちが復活を信じる信仰は、2千年前の十字架で死んだ主が、
復活して、今も生きていて、私の中に働いてくださる。
ともに生きていてくださる、という関係にあるのだ。
「その永遠のいのちとは、彼らが唯一のまことの神であるあなたと、
あなたの遣わされたイエス・キリストとを知ることです。」ヨハネ17:3.
「あなたのお父さんってどんな人?」
そう聞かれて、子供が父の学歴とか、会社とか、役職とか
名刺を読むような紹介をしたら、それは寂しいでしょう。
「父は無口だけど、家ではこんななのよ。」
「厳しいけど、とてもやさしいとこがあるのよ」
知っているということは、関係を言う。
以前、ある夫妻が娘が高熱を出した時、
病院に行ったら、医者はただの風邪だと言って、薬を処方して終わり。
その両親は胸騒ぎというか、どうしても納得できず、
大きな病院で精密検査をしたところ、特殊な病気であることがわかった。
ほっておいたら、助からなかったという。
これも、関係から来る直感というか、相手を知るゆえのことである。
医者という専門家の他人と、医学の素人の親子では、
どっちが病状をわかっているんだろう?
関係が優るのである。
あるカウンセラーが虐待について話してくれた。
幼少の頃、ひどい暴力を受けた経験のある人をカウンセリングしたけど、
一番、傷が深いのがネグレクトだと言う。
ここでのネグレクトは無視のこと。
母親が、自分の言うとおりに子供がしなかったということで、
無視するわけだ。無視するという暴力(罰)を与えるわけです。
無視された子は、深い傷を負う。
無視は、その人の存在を殺すこと。
復活信仰を信じていると言いながら、ただ、その事実を認めただけで、
そのジーザスの存在、臨在を認めないなら、
その信仰は無になる。
復活信仰、それは関係を築くことである。
家に居る時、車を運転する時、一人でいると思っていないだろうか?
目には見えないが、ジーザスは臨在して、ともにいるのです。
「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。
神に近づく者は、神がおられることと、
神を求める者には報いてくださる方であることとを、
信じなければならないのです。」ヘブル11:6.
Posted by パスター・レイ at 07:31│Comments(0)
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