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2010年03月21日

集団の解放

マルコ5章1-20節

ガリラヤ湖の向こう岸、ゲラサ地方に着くと、

悪霊つきの男がイエス様と弟子たちに近づいてきた。

この人は、墓に住んで、自分を傷つけている。

そして、その悪霊の名は「レギオン」

ローマ兵の構成人員5,600人をレギオンという。

これほどひどい悪霊になぜとりつかれたのだろう?

これは個人的な問題を越えた、その地方の集団のかかえた連帯性があると思う。

どんな集団であれ、罪人の集まりであり、お互いに矛盾と問題をかかえている。

その問題を戦わせては、共存できないわけです。

それで、別の外の対象に問題を転嫁させるわけです。

加藤泰三さんが、「集団には掃き溜めが存在する」とか言っていた。

人々の問題を一身に背負って、掃き溜めになる人。

アラブ人は今でこそ、結束してイスラエル一国を叩いている。

しかし、それ以前はお互いに敵対していたのだ。

過去500年の間、アラブの地域では人口が増えていないそうだ。

それだけ、お互いに殺し合いで血を流したわけです。

そんな矛盾をかかえた国々が共通の敵に集中することで、

なんとか共存しているわけです。


カヤパというその当時の大祭司は、

イエス様を殺害するために、何気ない言葉を口にした。

『「ひとりの人が民に代わって死ぬことが得策である」

、とユダヤ人に助言した人である。』ヨハネ18:14

この悪意から出た言葉が、実は真実を表していた。

イザヤ53章を読むと、イエス様の死は人々の罪の掃き溜めであることがわかる。

その十字架によって、人はいやされ、回復する。

このゲラサ人の男は解放された。

そして、イエス様のおともをしたいと言った。

それは、恩に感じてのこともあるだろうが、

それ以上に、悲しい思い出しかないこの土地から離れたいと思ったのではないか。

しかし、イエス様はこの地方で暮らして、イエスの御業を証しせよと言われた。

この男一人の解放は、じつは、集団の罪の解決につながる。

集団の存在する問題をもった人は、じつは個人の問題ではなく、

集団のかかえている問題なのだ。

その人にかかわる時に、全体の問題が見えてくる。

ひいては、あなた個人の問題の解決にもなる。




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Posted by パスター・レイ at 09:34│Comments(0)バイブル
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