2010年03月14日
苦しみの中にあって
「人には、食べたり飲んだりし、
自分の労苦に満足を見いだすよりほかに、
何も良いことがない。これもまた、
神の御手によることがわかった。」箴言2:24
自分の労苦に満足を見いだすよりほかに、
何も良いことがない。これもまた、
神の御手によることがわかった。」箴言2:24
「愛と心理療法」で有名なスコット・ペックが
「問題と、そこから来る苦しみを回避する傾向こそ、
あらゆる精神疾患の一時的な基礎である。われわれの多くは、
程度の差こそあれ、このような傾向を持つ。
したがって多少なりとも精神的に病んでおり、
全く健康というわけではない。」と述べている。
現代ほど、魂の痛みを緩和させてくれるものを
提供してくれる時代はない。
娯楽にカウンセリング、心療内科、スピリチャルなものまで。
しかし、そのようなものを、現代人は
苦しみを乗り越える手段というより、回避するためのものとして、
利用している気がする。
教会さえ、そのような安易ないやしの場になっていないだろうか?
アメリカのマスコミは、牧師のことを皮肉って「マッサージ師」と呼んでいる。
エレミヤの警告が当てはまる。
「彼らは、わたしの民の傷を手軽にいやし、
平安がないのに、『平安だ、平安だ。』と言っている。」エレミヤ6:14.
今ほど、心の病む時代はない。
しかし、環境から考えれば、一昔前の方がダメージは大きいと思う。
沖縄で戦争を体験した人はみんなPTSDだと言っていい。
しかし、みんなたくましく生きてきた。
いや、生きていくために、
現実に向かい合わなければいけないきびしい時代であった。
痛みを回避することが許されなかった。
スコット・ペックが言うように、現代は手軽にいやす手段がたくさんある。
現実を直視しないでもやりくりできると言ったらいいか。
そのことが、逆に人の心の病を増し加えると言うわけです。
冒頭の箴言のことばにあるように、
苦しみは回避するものではない。
それを受け止め、その中に生きることだ。
苦しみの中で、泣いて、怒る。感じたことを正直に表現する。
そういった痛みをシェアできる友がいたら素晴らしい。
そして、食べて、飲んで、寝て
また、朝が来て、仕事をする。
その中で、神が生きてともにいることを感謝する。
そのように淡々と日常を送る。
問題は乗り越えても、また、次の問題がご親切にやってくる。
生涯、その繰り返しである。
苦しみは回避するものではない。
受け入れ、その中に幸いを見いだすことです。
「問題と、そこから来る苦しみを回避する傾向こそ、
あらゆる精神疾患の一時的な基礎である。われわれの多くは、
程度の差こそあれ、このような傾向を持つ。
したがって多少なりとも精神的に病んでおり、
全く健康というわけではない。」と述べている。
現代ほど、魂の痛みを緩和させてくれるものを
提供してくれる時代はない。
娯楽にカウンセリング、心療内科、スピリチャルなものまで。
しかし、そのようなものを、現代人は
苦しみを乗り越える手段というより、回避するためのものとして、
利用している気がする。
教会さえ、そのような安易ないやしの場になっていないだろうか?
アメリカのマスコミは、牧師のことを皮肉って「マッサージ師」と呼んでいる。
エレミヤの警告が当てはまる。
「彼らは、わたしの民の傷を手軽にいやし、
平安がないのに、『平安だ、平安だ。』と言っている。」エレミヤ6:14.
今ほど、心の病む時代はない。
しかし、環境から考えれば、一昔前の方がダメージは大きいと思う。
沖縄で戦争を体験した人はみんなPTSDだと言っていい。
しかし、みんなたくましく生きてきた。
いや、生きていくために、
現実に向かい合わなければいけないきびしい時代であった。
痛みを回避することが許されなかった。
スコット・ペックが言うように、現代は手軽にいやす手段がたくさんある。
現実を直視しないでもやりくりできると言ったらいいか。
そのことが、逆に人の心の病を増し加えると言うわけです。
冒頭の箴言のことばにあるように、
苦しみは回避するものではない。
それを受け止め、その中に生きることだ。
苦しみの中で、泣いて、怒る。感じたことを正直に表現する。
そういった痛みをシェアできる友がいたら素晴らしい。
そして、食べて、飲んで、寝て
また、朝が来て、仕事をする。
その中で、神が生きてともにいることを感謝する。
そのように淡々と日常を送る。
問題は乗り越えても、また、次の問題がご親切にやってくる。
生涯、その繰り返しである。
苦しみは回避するものではない。
受け入れ、その中に幸いを見いだすことです。
Posted by パスター・レイ at 06:03│Comments(0)
│コラム
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