2010年02月06日
聖書人物伝:新約(1)ザカリヤ・エリサベツ
今、教会で聖書人物伝を学んでいます。
聖書は個性のある人がいっぱいで、
それぞれの生き方から教訓を学べます。
それで、1回目はザカリヤとエリサベツ夫妻です。
聖書は個性のある人がいっぱいで、
それぞれの生き方から教訓を学べます。
それで、1回目はザカリヤとエリサベツ夫妻です。
1.ザカリヤの地位
「ユダヤの王へロデの時に、アビヤの組の看でザカリヤという祭司がいた。
彼の要はアロンの子孫で、名をエリサベツといった。」ルカ1:5.
夫のザカリヤは、アロンの家系である祭司でした。
中でもアビヤ組に所属していました。
祭司は、アルファベット順に24の組に分かれ、
神殿の様々な仕事を、順番に受け持っていました。
アビヤ組は第8班。
神殿の仕事は年に2回、1週間ずつまわってきました。
祭司の中でもザカリヤは下っ端の地位であったと言われています。
香を焚くのは年に2回ですから、ザカリヤが香を焚くことは、
一生に一度当たるかどうかの名誉な奉仕でありました。
そのくじに当たったわけです。
2.二人の性格
「ふたりとも、神の御前に正しく、
主のすべての戒めと定めとを落度なく行なっていた。」ルカ1:6
聖書は二人が神の御前に正しい人、戒めを守っていた人と紹介しています。
これは、律法を完全に行ったことで正しいということではなく、
誠実な裏表のない良心的な、神を愛する人と言ったらいいでしょうか。
福音書では、祭司の中で堕落した者が多い中、
ザカリヤとエリサベツは忠実な人であったわけです。
神の人である、バプテスマのヨハネは、この二人によって育てられました。
3.二人の悩み
二人には長い間かかえていた悩みがありました。
それは、エリサベツが不妊の女ということで、子供がいなかったのです。
イスラエルでは神が祝福されている人は繁栄すると考えられていました。
イスラエルの繁栄は具体的に、経済、健康、出世など現世利益です。
当然、子宝に恵まれることも含まれます。
イスラエルでは子孫を残すことが不可欠でしたし、
女性が社会で活躍するキャリアウーマンなどの道はないわけで、
家において子を残すことが存在意義とされる女性の立場から、
子供ができないことは、どれだけの苦悩だったかが想像できます。
世間の冷たいまなざしを感じながら、
また、老いていくお互いの姿を見合せながら、
子供を授かる希望も風前の灯のようです。
エリサベツはずっと自分を責めていたでしょう。
彼女が子供を授かった時に、「恥を取り除いてくださった」とありますから、
恥じ入る毎日を送っていたのです。
そういった二人は、誠実に歩みながらも、不幸せな夫婦でした。
4.二人を顧みる神
そんな年老いた二人に、天使ガブリエルを通して、
神は子供を授ける約束を与えて下さいました。
しかも、その約束の子供はただの人ではありません。
「彼こそ、エリヤの霊と力で主の前ぶれをし、父たちの心を子に向けさせ、
逆らう者を義人の心に立ち戻らせ、
こうして、整えられた民を主のために用意するのです。」ルカ1:17.
息子ヨハネは預言者であり、
しかも、救い主イエス様の道備えをする最後の預言者なのです。
このヨハネはナジル人であり、救い主イエス様が登場する前に、
イスラエルの心を整える大切な使命を帯びているために、
特別な躾と教育が必要でした。
それで、普通の子とは違い、信仰の訓練を行い、成長しても酒も飲まず、
たぶん、娯楽も放棄させたかもしれません。
このような、神の人を育てるには、
ザカリヤとエリサベツのような、誠実さ、信仰、試練によって練られた品性、
忍耐力をもった人でなければ育てることができなかったでしょう。
そんなヨハネを育てるために、神を愛する二人を選び、子供を与えられず、
苦しむという、特別な訓練によって、二人を練り上げ、
そして、整えられた二人に恵みを与えました。
主は、特別に大きく用いる器を不条理とも思える試練をくぐらせ、
その中で、人格を整えます。そして、練り上げられて、
主のみこころにかなう者に変えられた時、
はじめに計画した祝福を与え、その人を用いられるのです。
「すべての懲らしめは、そのときは喜ばしいものではなく、
かえって悲しく思われるものですが、後になると、
これによって訓練された人々に平安な義の実を結ばせます。」ヘブル12:11.
ですから、神が意味なく苦しみを与えるのではないことを知りましょう。
その中で働く神を認め、忍耐し、神を信頼する歩みを進んで行きましょう。
5.ザカリヤの不信仰
天使ガブリエルによって、子が授かることを告げられると、
ザカリヤは不信仰に陥ってしまいました。
「こわがることはない。ザカリヤ。
あなたの願いが聞かれたのです。」ルカ1:14.
ここで、ガブリエルは「あなたの願いが聞かれた」と言っています。
ザカリヤはずっと、子供が授かることを願っていたのです。
エリサベツと同様、子供は二人の悲願だったのです。
しかしです。
その悲願を約束されたザカリヤが口にしたことは何だったでしょう。
「・・私ももう年寄りですし、事も年をとっております。」ルカ1:18.
ガブリエルの言葉を信じることができなかったのです。
ガブリエルは神の使いですから、
ガブリエルの言葉はそのまま、神の約束になります。
よって、ザカリヤは神を疑ったのです。
このザカリヤと似たようなケースがあります。
初代教会の時代に迫害がはじまり、使徒ペテロが投獄されました。
危機感を募らせた聖徒たちは、
ペテロが救い出されるように熱心に祈り続けていました。
「こうしてペテロは牢に閉じ込められていた。
教会は彼のために、神に熱心に祈り続けていた。」使徒12:5.
熱心に祈り続けるということは、あきらめずにいたということですし、
ペテロが救い出されることを切に願っていたわけです。
しかし、実際に、その祈りがかなえられ、
ペテロが天使によって救い出されとことを伝えた女中に彼らが言った言葉はこうです。
「彼らは、『あなたは気が狂っているのだ。』と言ったが、
彼女はほんとうだと言い張った。そこで彼らは、
『それは彼の御使いだ。』と言っていた。 」使徒12:15.
彼らは熱心でしたが、信仰があまりなかったようです。
ザカリヤも落ち度なく律法を守り、神の御前に正しい人でしたが、
信仰を働かせていませんでした。半信半疑という言葉がありますが、
まさに彼らは神に頼りながら疑うという、中途半端な信仰でした。
ここでわかるのは、信仰と願いは違うと言うことです。
願うとは、「ああなればいい、こうなればいい」と願望です。
しかし、そこには生きた信仰があるわけではありません。
信仰は働かせて、種のようにいのちがなければいけません。
「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。
神に近づく者は、神がおられることと、
神を求める者には報いてくださる方であることとを、
信じなければならないのです。」ヘブル11:6.
信仰の表われ、また、大切な要素はずばり「ことば」です。
ことばが信仰を表します。
ザカリヤも初代教会の人たちもことばで不信仰を表しました。
不信仰なことばこそ、神の御業を邪魔するものです。
よって、ガブリエルはザカリヤの口をヨハネの誕生までの約1年間封じました。
口を封じないと、また、不信仰のことばで、神の約束を邪魔するからです。
「これらのことが起こる日までは、
あなたは、おしになって、ものが言えなくなります。
私のことばを信じなかったからです。その時が来れば実現します。」ルカ1:20.
6.真実な神
ペテロのために祈った聖徒たちは
半信半疑の信仰で祈っていたにもかかわらず、
神はその祈りに答え、ペテロを救いだしました。
ここでも不信仰なザカリヤの願いを神は聞いて、憐れんでくださったのです。
神は人間と違い、真実な方なのです。
ここで大切なのは、たとえ、あなたの信仰が半信半疑で、
弱い信仰であっても、その祈りを聞いてくださるのは、真実な神だからなのです。
私たちはこの神に信頼します。自分の信仰に信頼するのではありません。
そこを間違わないように祈りましょう。
「その後、妻エリサベツはみごもり、
5ヵ月の間引きこもって、こう言った。
『主は、人中で私の恥を取り除こうと心にかけられ、
今、私をこのようにしてくださいました。』」ルカ1:24、25.
エリサベツの喜びはどれだけ大きなものだったでしょう。
抱えた重荷が大きかっただけに、
その恵みに対する感謝は尽きることがなかったと思います。
彼女の人生は恥で覆われた日々でした。
誠実に神を信じながらも報われない、悲しみと憂いの毎日だったのです。
そんな彼女を主は省みて、その恥を取り除き、喜びと幸せで満たして下さったのです。
ここで教えられるのは、たとえ報われない苦難の中であっても、
くさらずに神を信頼して歩むということです。
そんな忍耐をして歩む二人を神は省みてくださったのです。
「あなたがたがわたしにとどまり、
わたしのことばがあなたがたにとどまるなら、
何でもあなたがたのほしいものを求めなさい。
そうすれば、あなたがたのためにそれがかなえられます。」
ヨハネ15:7。
二人の晩年は、ヨハネの教育に注ぎました。
それは、救い主の前に重要な務めをする息子ヨハネを育てるということでした。
生まれた時から聖霊に満たされたヨハネは神を愛する二人にとって、
どれだけ慰めであったことでしょう。
そして、親族のマリヤが連れてくる子供時代のイエス様とも交流があったでしょう。
そのような、イスラエルの救いの完成を夢見て、
希望の中で二人は役目を終えて、生涯を閉じました。
神の恵みによって、二人は神の働きの一端を担い、
感謝と幸いの中、人生を歩み終えたのです。
神の御手にあった二人は本当に幸せと言えたのではないでしょうか。
黙想と適用:
1.神はご自身が大きく用いる者を特別に訓練します。
それは辛いことのように思えますが、
それによって整えられて、神の人へと変えられていくのです。
2.そのためには、訓練の中、神を信頼して、
みことばに従って歩む必要があります。
3.信仰を働かせるには、ことばを変えなければいけません。
不信仰なことばを捨てて、神を信じるいのちのあることばを使う必要があります。
4.しかし、自分の信仰が弱いと感じても、あきらめないようにしましょう。
私たちが信頼すべきは、自分の信仰ではなく、神の真実です。
その真実を知る時に、信仰も強くなります。
5.神はあなたの恥を取り除いてくださいます。
エリサベツのように、感謝とさんびをささげるようになります。
ですから、希望をもって今日を歩みましょう。
「ユダヤの王へロデの時に、アビヤの組の看でザカリヤという祭司がいた。
彼の要はアロンの子孫で、名をエリサベツといった。」ルカ1:5.
夫のザカリヤは、アロンの家系である祭司でした。
中でもアビヤ組に所属していました。
祭司は、アルファベット順に24の組に分かれ、
神殿の様々な仕事を、順番に受け持っていました。
アビヤ組は第8班。
神殿の仕事は年に2回、1週間ずつまわってきました。
祭司の中でもザカリヤは下っ端の地位であったと言われています。
香を焚くのは年に2回ですから、ザカリヤが香を焚くことは、
一生に一度当たるかどうかの名誉な奉仕でありました。
そのくじに当たったわけです。
2.二人の性格
「ふたりとも、神の御前に正しく、
主のすべての戒めと定めとを落度なく行なっていた。」ルカ1:6
聖書は二人が神の御前に正しい人、戒めを守っていた人と紹介しています。
これは、律法を完全に行ったことで正しいということではなく、
誠実な裏表のない良心的な、神を愛する人と言ったらいいでしょうか。
福音書では、祭司の中で堕落した者が多い中、
ザカリヤとエリサベツは忠実な人であったわけです。
神の人である、バプテスマのヨハネは、この二人によって育てられました。
3.二人の悩み
二人には長い間かかえていた悩みがありました。
それは、エリサベツが不妊の女ということで、子供がいなかったのです。
イスラエルでは神が祝福されている人は繁栄すると考えられていました。
イスラエルの繁栄は具体的に、経済、健康、出世など現世利益です。
当然、子宝に恵まれることも含まれます。
イスラエルでは子孫を残すことが不可欠でしたし、
女性が社会で活躍するキャリアウーマンなどの道はないわけで、
家において子を残すことが存在意義とされる女性の立場から、
子供ができないことは、どれだけの苦悩だったかが想像できます。
世間の冷たいまなざしを感じながら、
また、老いていくお互いの姿を見合せながら、
子供を授かる希望も風前の灯のようです。
エリサベツはずっと自分を責めていたでしょう。
彼女が子供を授かった時に、「恥を取り除いてくださった」とありますから、
恥じ入る毎日を送っていたのです。
そういった二人は、誠実に歩みながらも、不幸せな夫婦でした。
4.二人を顧みる神
そんな年老いた二人に、天使ガブリエルを通して、
神は子供を授ける約束を与えて下さいました。
しかも、その約束の子供はただの人ではありません。
「彼こそ、エリヤの霊と力で主の前ぶれをし、父たちの心を子に向けさせ、
逆らう者を義人の心に立ち戻らせ、
こうして、整えられた民を主のために用意するのです。」ルカ1:17.
息子ヨハネは預言者であり、
しかも、救い主イエス様の道備えをする最後の預言者なのです。
このヨハネはナジル人であり、救い主イエス様が登場する前に、
イスラエルの心を整える大切な使命を帯びているために、
特別な躾と教育が必要でした。
それで、普通の子とは違い、信仰の訓練を行い、成長しても酒も飲まず、
たぶん、娯楽も放棄させたかもしれません。
このような、神の人を育てるには、
ザカリヤとエリサベツのような、誠実さ、信仰、試練によって練られた品性、
忍耐力をもった人でなければ育てることができなかったでしょう。
そんなヨハネを育てるために、神を愛する二人を選び、子供を与えられず、
苦しむという、特別な訓練によって、二人を練り上げ、
そして、整えられた二人に恵みを与えました。
主は、特別に大きく用いる器を不条理とも思える試練をくぐらせ、
その中で、人格を整えます。そして、練り上げられて、
主のみこころにかなう者に変えられた時、
はじめに計画した祝福を与え、その人を用いられるのです。
「すべての懲らしめは、そのときは喜ばしいものではなく、
かえって悲しく思われるものですが、後になると、
これによって訓練された人々に平安な義の実を結ばせます。」ヘブル12:11.
ですから、神が意味なく苦しみを与えるのではないことを知りましょう。
その中で働く神を認め、忍耐し、神を信頼する歩みを進んで行きましょう。
5.ザカリヤの不信仰
天使ガブリエルによって、子が授かることを告げられると、
ザカリヤは不信仰に陥ってしまいました。
「こわがることはない。ザカリヤ。
あなたの願いが聞かれたのです。」ルカ1:14.
ここで、ガブリエルは「あなたの願いが聞かれた」と言っています。
ザカリヤはずっと、子供が授かることを願っていたのです。
エリサベツと同様、子供は二人の悲願だったのです。
しかしです。
その悲願を約束されたザカリヤが口にしたことは何だったでしょう。
「・・私ももう年寄りですし、事も年をとっております。」ルカ1:18.
ガブリエルの言葉を信じることができなかったのです。
ガブリエルは神の使いですから、
ガブリエルの言葉はそのまま、神の約束になります。
よって、ザカリヤは神を疑ったのです。
このザカリヤと似たようなケースがあります。
初代教会の時代に迫害がはじまり、使徒ペテロが投獄されました。
危機感を募らせた聖徒たちは、
ペテロが救い出されるように熱心に祈り続けていました。
「こうしてペテロは牢に閉じ込められていた。
教会は彼のために、神に熱心に祈り続けていた。」使徒12:5.
熱心に祈り続けるということは、あきらめずにいたということですし、
ペテロが救い出されることを切に願っていたわけです。
しかし、実際に、その祈りがかなえられ、
ペテロが天使によって救い出されとことを伝えた女中に彼らが言った言葉はこうです。
「彼らは、『あなたは気が狂っているのだ。』と言ったが、
彼女はほんとうだと言い張った。そこで彼らは、
『それは彼の御使いだ。』と言っていた。 」使徒12:15.
彼らは熱心でしたが、信仰があまりなかったようです。
ザカリヤも落ち度なく律法を守り、神の御前に正しい人でしたが、
信仰を働かせていませんでした。半信半疑という言葉がありますが、
まさに彼らは神に頼りながら疑うという、中途半端な信仰でした。
ここでわかるのは、信仰と願いは違うと言うことです。
願うとは、「ああなればいい、こうなればいい」と願望です。
しかし、そこには生きた信仰があるわけではありません。
信仰は働かせて、種のようにいのちがなければいけません。
「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。
神に近づく者は、神がおられることと、
神を求める者には報いてくださる方であることとを、
信じなければならないのです。」ヘブル11:6.
信仰の表われ、また、大切な要素はずばり「ことば」です。
ことばが信仰を表します。
ザカリヤも初代教会の人たちもことばで不信仰を表しました。
不信仰なことばこそ、神の御業を邪魔するものです。
よって、ガブリエルはザカリヤの口をヨハネの誕生までの約1年間封じました。
口を封じないと、また、不信仰のことばで、神の約束を邪魔するからです。
「これらのことが起こる日までは、
あなたは、おしになって、ものが言えなくなります。
私のことばを信じなかったからです。その時が来れば実現します。」ルカ1:20.
6.真実な神
ペテロのために祈った聖徒たちは
半信半疑の信仰で祈っていたにもかかわらず、
神はその祈りに答え、ペテロを救いだしました。
ここでも不信仰なザカリヤの願いを神は聞いて、憐れんでくださったのです。
神は人間と違い、真実な方なのです。
ここで大切なのは、たとえ、あなたの信仰が半信半疑で、
弱い信仰であっても、その祈りを聞いてくださるのは、真実な神だからなのです。
私たちはこの神に信頼します。自分の信仰に信頼するのではありません。
そこを間違わないように祈りましょう。
「その後、妻エリサベツはみごもり、
5ヵ月の間引きこもって、こう言った。
『主は、人中で私の恥を取り除こうと心にかけられ、
今、私をこのようにしてくださいました。』」ルカ1:24、25.
エリサベツの喜びはどれだけ大きなものだったでしょう。
抱えた重荷が大きかっただけに、
その恵みに対する感謝は尽きることがなかったと思います。
彼女の人生は恥で覆われた日々でした。
誠実に神を信じながらも報われない、悲しみと憂いの毎日だったのです。
そんな彼女を主は省みて、その恥を取り除き、喜びと幸せで満たして下さったのです。
ここで教えられるのは、たとえ報われない苦難の中であっても、
くさらずに神を信頼して歩むということです。
そんな忍耐をして歩む二人を神は省みてくださったのです。
「あなたがたがわたしにとどまり、
わたしのことばがあなたがたにとどまるなら、
何でもあなたがたのほしいものを求めなさい。
そうすれば、あなたがたのためにそれがかなえられます。」
ヨハネ15:7。
二人の晩年は、ヨハネの教育に注ぎました。
それは、救い主の前に重要な務めをする息子ヨハネを育てるということでした。
生まれた時から聖霊に満たされたヨハネは神を愛する二人にとって、
どれだけ慰めであったことでしょう。
そして、親族のマリヤが連れてくる子供時代のイエス様とも交流があったでしょう。
そのような、イスラエルの救いの完成を夢見て、
希望の中で二人は役目を終えて、生涯を閉じました。
神の恵みによって、二人は神の働きの一端を担い、
感謝と幸いの中、人生を歩み終えたのです。
神の御手にあった二人は本当に幸せと言えたのではないでしょうか。
黙想と適用:
1.神はご自身が大きく用いる者を特別に訓練します。
それは辛いことのように思えますが、
それによって整えられて、神の人へと変えられていくのです。
2.そのためには、訓練の中、神を信頼して、
みことばに従って歩む必要があります。
3.信仰を働かせるには、ことばを変えなければいけません。
不信仰なことばを捨てて、神を信じるいのちのあることばを使う必要があります。
4.しかし、自分の信仰が弱いと感じても、あきらめないようにしましょう。
私たちが信頼すべきは、自分の信仰ではなく、神の真実です。
その真実を知る時に、信仰も強くなります。
5.神はあなたの恥を取り除いてくださいます。
エリサベツのように、感謝とさんびをささげるようになります。
ですから、希望をもって今日を歩みましょう。
Posted by パスター・レイ at 06:57│Comments(0)
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