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2010年01月10日

すべて疲れた人

『すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、
 わたしのところに来なさい。
 わたしがあなたがたを休ませてあげます。』マタイ11章28節


今年の初詣は例年と比べて、2割、多いところで3割り増しだと言う。

夕方、ニュースのアナウンサーが、この状況を見て、

「今の状況は、どんなにがんばっても、

 人間の力ではどうにもならなくなっている。

 だから、最後は神頼みするしかないですよね。」

みたいなことを言っていた。




今までが、自分の力でやっていけた。

それなりに、自分の能力や資質をやりくりして

なんとかやっていけた。

しかし、今は国も企業も個人も、生き抜くために必死で、

余裕がまったくない。

テレビで新宿近辺の会社を面接を受けるが、

何十件も断られている人が出ていた。

しっかりした人なのに、契約社員にすらなれない。

福音書で、ペテロが漁をして一晩中仕事をしたが

1匹も網にかからなかった場面がある(ルカ5:5)

ここで「疲れた人」と同じ言葉が使われている。

詳訳聖書によると、「精一杯苦労しましたが」魚は取れなかったとなる。

がんばっても報われないことを意味する言葉である。

もともと、イスラエルの律法によって、がんじがらめにされて、

疲れた人という意味ですが、

現代も、映画スピードのごとく、止まることのない列車のように、

働いてきたが、何の意味も見出せないで疲れている。

今や、派遣で、給料も上がらなければ、いつ、首になるかわからず

疲れはたまる一方である。

今こそ、冒頭の招きに人が応えるときなのだ。

ジーザスのくびきは軽い(塚本訳では「甘い」)し、心地よいとある。

地位・名誉・お金。。。

いろいろ求めているようで、その深いところでは

人は愛を求めているのだ。

「人の望むものは、人の変わらぬ愛である。」箴言19:22.

疲れはいまだに解明されていないようで、

なぜ、疲れるのかわからないらしい。

どんなに忙しくても、意味を見出すなら、充実した気分が、体の疲れさえ

心地よさに感じる。

しかし、意味のない、価値を見出せないことにエネルギーを使うのは

わずかの時間でも疲れる。

このジーザスとともに歩むなら、

この問題のある人生も、心地よさをもって歩めるのです。



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Posted by パスター・レイ at 09:23│Comments(0)バイブル
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