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2009年12月29日

良き地へ入る

かつて、西欧列強でアジアやアフリカ諸国が植民地支配を受けた。

戦後、ほとんどの国は独立して、自由になった。

もう、何十年も自由な状態であるはずなのに、

元殖民地の国というのは、貧しく、内戦やいろんな問題が多い。

一度、支配を受けて、奴隷状態になると、

その後、自由を得ても、

その自由の使い道がわからない。




日本は敗戦したが、植民地にならずにすんだ。(今も植民地という節もあるが)

しかし、沖縄はかつてはアメリカ統治であり、

辛酸をなめたわけです。

そのせいか、沖縄には被害者意識というか、

いじけの感情が他県の人より大きい気がします。

「だから、ナイチャ~は」ってよく聞きます。

それを聞くと複雑です。


以前、高校野球の招待試合で本土の有名高校と試合を見たことがある。

試合の後に、歓迎式典みたいのがあって、

選手を整列させているのですが、なかなかプログラムが進行しない。

まあ、沖縄によくある、チルダイ~してるわけさあ。

そしたら、観客から大声で「何してるか、沖縄の恥だ」

とかいって、怒号が聞こえてたいへんだったよお~

個人的にはさあ、ナイチに対抗しなくていいと思うのよね。

ウチナーにはウチナーのよさがあると思うわけさ。

ナイチを特別視しないで、それぞれ個性として共存したらいいと思うわけ。


しゃべりがへんになったので戻しますが。


イスラエル民族も430年という長期の奴隷状態から救い出されて、

出エジプトしたわけです。

もう、自由です。

しかも、紅海を真っ二つに分けるという、

聖書紙上最大の奇蹟も体験しました。

ミリヤムもタンバリンたたいて、はしゃいで踊ったんだぞう。

430年の苦しみから自由にされ、期間限定紅海バイパスを通過した。

これだけのことしてくれた恩人である神様に一生頭が上がらないし、

普通、感謝、感謝で「一生あなたについて行きます」と

ロスプリモスばりの演歌を歌いたくなりますよ。

しかし

しかしだ。


詩篇106篇9~14節を読むと、


「主が葦の海を叱ると、海は干上がった。
 主は、彼らを行かせた。深みの底を。
 さながら荒野を行くように。
 主は、憎む者の手から彼らを救い、敵の手から彼らを贖われた。
 ・・そこで、彼らはみことばを信じ、主への賛美を歌った。
 しかし、彼らはすぐに、みわざを忘れ、そのさとしを待ち望まなかった。
 彼らは、荒野で激しい欲望にかられ、荒れ地で神を試みた。」


紅海の底を歩いた人たちが、「すぐに、みわざを忘れ」とある。

イスラエルの民は、奴隷根性が抜け切れなくて、

神がどんな奇蹟や哀れみ、恵みを示しても、

全部、台無しにしてしまうのだ。

神の恵みには目が行かないのだ。

目の前にある、足りない、満たされていない、うまくいっていない

そんなことにばかり目がいく。

それも、自分の基準でだめだと量っているわけだが。

「あしあと」という有名な詩がある。

自分の人生を主がともに歩いた足跡が見える。

でも、一番つらい時に、一人分しかないということで、

「なんで、俺一人、取り残してたんですか?

そのとき、あなたはどこ行ってたの?」

と文句を言うわけだ。

「実は、あれはお前の足跡じゃなくて、俺んだよ」

と主が説明を加える。

そう、とうの本人は人生の荒波で、息も絶え絶えでくたばりそうだった。

じっさい、自分では歩くことができなかった。

それを、背負って一人歩いていたのは主なんだよ。

ほんとは自分の人生を神によって回顧するなら、

どれだけ支えられ、実際倒れたのを背負われて

今まで生きていることを、ぼくらは知らない。

そんな恵みは隠れているし、見えない。

未熟な人は、見えないから、隠れているからと言って、

それを認めず、

「してくれていない」と思うことに目をとめる。


荒野という場所は人生のテストの場である。

それは、けっして喜ばしくない、満ち足りているようには見えない

そういう環境にあえて、ボクらは置かれる。

そこで、見たままをそのままつぶやくのか、

不満をぶちまけるのか、

それをやったら、テストに合格しない。

新しいぶどう酒は新しい皮袋に入れると決まっている。

神が与えた、いのちの福音を奴隷根性の心に与えたら、

無駄にこぼして、台無しにしてしまうだろう。


「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。
 神に近づく者は、神がおられることと、
 神を求める者には報いてくださる方であることとを、
 信じなければならないのです。」ヘブル11:6


神がおられることを信じるとは、

神がいるのか、いないのかと、存在の是非を言っているのではない。

ユダヤ人は神がいて当たり前の環境に生きていたわけだから、

そんな意味ではない。

「神がおられること」それは

神がご自身のお名前を「あってあるもの: I am」と言われた

今、この時、最善に働かれる神であることを信じること。

信仰は「ああなれば感謝したい」ではない。

これは、今を生きている人の言葉ではない。

今、すべて、環境も境遇も、すべてを含めて、最善にしてくださる神を信じ、

今、感謝する。

今、賛美する。

信仰は時間とともに成長するのではない。

年数からすれば、教師(聖書に精通する)にならないといけないのに

ミルクを飲んでいる者がいる。

信仰は働かせた時に、成長する。

信仰のバロメーターは告白です。

だから、イスラエルの民の告白はつぶやきなんです。

ボクらはエジプトという世で過酷に扱われて、

劣等感のかたまりで、心の中にはマイナスの感情が蓄積されている。

それをそのまま言えば、つぶやきなのだ。


カインがささげもののことで怒りを覚えた時、

神はカインに、その感情を治めなければいけないと言った。

だから、つぶやきが出そうな時、

セルフコントロールするのは自分の責任なのだ。

ボクらが新しい心で、神のいのちである福音を受け止めたとき、

ボクらは変えられていく。

そして、ヨシュアとカレブのように、カナンの地へ入る。

カナンは乳と蜜の流れる麗しい、良い地である。

神が用意しているのは、

ボクらが、心に浮かばない、見たことのない、

聞いたことのない、願うところをはるかに越えた

すごい地なのだ。

偉大な主に感謝と賛美をささげよう

すべてを最善に良きものに変えてくださるから。









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Posted by パスター・レイ at 09:47│Comments(0)バイブル
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