2009年11月28日
隠れたところが大事
『だから、わたしのこれらのことばを聞いてそれを行う者はみな、
岩の上に自分の家を建てた賢い人に比べることができます。
雨が降って洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけたが、
それでも倒れませんでした。岩の上に建てられていたからです。
また、わたしのこれらのことばを聞いてそれを行わない者はみな、
砂の上に自分の家を建てた愚かな人に比べることができます。
雨が降って洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけると、
倒れてしまいました。しかもそれはひどい倒れ方でした。』
マタイ7章24~27節
岩の上に自分の家を建てた賢い人に比べることができます。
雨が降って洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけたが、
それでも倒れませんでした。岩の上に建てられていたからです。
また、わたしのこれらのことばを聞いてそれを行わない者はみな、
砂の上に自分の家を建てた愚かな人に比べることができます。
雨が降って洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけると、
倒れてしまいました。しかもそれはひどい倒れ方でした。』
マタイ7章24~27節
19歳の頃、大学受験を失敗して、家を飛び出して、
そのまま上京した。
友達のアパートに転がり込んで、しばらく東京を満喫していたが、
お金も底をつき、仕事を探すことにした。
とりあえず、近所の内装工の仕事を見つけた。
仕事をして見ると、そこの親父さんは、
先祖代々の生粋の江戸っ子で、「はひふへほ」が言えない。
「そこ左へ曲がってくれ」を「シダリに曲がって」になる。
いつも、自分の腕をたたいては、「おいらのここ(腕)は打ち出の小槌でぇ」
と誇らしげに言っていた。
この親父さんは、仕事には決して手を抜かなかった。
そのような江戸っ子の矜持には、「隠れたところこそ手を抜かない」
というのがある。
映画の「みんなのいえ」を見れば、そのへんの江戸っ子の大工気質が
わかります。基礎、屋根裏など、人から見えない部分こそ、気をつかう。
このたとえに出てくる2つの家は外観の説明はいっさいない。
一方は木造で、片方がコンクリートだとも言っていない。
だから、外観は同じ家なのだ。
最近は事情が違うようだが、少し前まで、日本人のほどんどは
自分は中流家庭であると自覚している。
みんな平均的な給料をもらい、そのなかでやりくりして、
旅行、ショッピング、趣味に、それなりに楽しんでいる。
そこそこ良い人で、悪人はほとんどいない。みんなそれなりにうまくやっている。
外観ではみないっしょなのだ。
違いは家の土台。つまり見えない生活。
友達や家族と離れて、一人となった時の生活。
この見えない生活が大切なのだ。
神との交わりを通して、神を愛し、
みことばがその人にとどまる。
神はその隠れたところで、ご自分に近づく者に報いてくださる。
そして、そのような隠れた生活を持っている人は
そんなに目立つわけではない。大きく人と違いがあるわけではない。
しかし、その違いがはっきりわかる時がある。
それは試練の日である。
嵐がやって来ると、隠れた生活を持っている人と
持っていない人の明暗が分かれる。
試練によって、信仰を捨てたり、だめになる場合、
試練が原因ではない。
もともと、土台がやわだったのだ。
間違った土台によって、信仰をやっていただけ。
人生がうまくいかなくなった人が「神がわからなくなりました」と言った。
もともと、わかってなかったんだよ。と言いたい。(言わないけど)
あるドクターが言っていた。
「健康はそれ自体を求めて得られるのではないよ。
十分な睡眠、バランスの取れた食事、適度な運動を継続して行った時に、
健康が自然と付録で付いてくるのよ。」
祝福とか、それ自体を求めるものではない。
神との隠れた生活の積み重ねによって、
自然と祝福は付録として付いて来るのだ。
そして、本当の嵐とは、裁きの日である。
人々の外側ではわからない生き方が
嵐によって、その土台がわかる。
「というのは、だれも、すでに据えられている土台のほかに、
ほかの物を据えることはできないからです。
その土台とはイエス・キリストです。」1コリント3章11節
あなたの土台は何ですか?
そのまま上京した。
友達のアパートに転がり込んで、しばらく東京を満喫していたが、
お金も底をつき、仕事を探すことにした。
とりあえず、近所の内装工の仕事を見つけた。
仕事をして見ると、そこの親父さんは、
先祖代々の生粋の江戸っ子で、「はひふへほ」が言えない。
「そこ左へ曲がってくれ」を「シダリに曲がって」になる。
いつも、自分の腕をたたいては、「おいらのここ(腕)は打ち出の小槌でぇ」
と誇らしげに言っていた。
この親父さんは、仕事には決して手を抜かなかった。
そのような江戸っ子の矜持には、「隠れたところこそ手を抜かない」
というのがある。
映画の「みんなのいえ」を見れば、そのへんの江戸っ子の大工気質が
わかります。基礎、屋根裏など、人から見えない部分こそ、気をつかう。
このたとえに出てくる2つの家は外観の説明はいっさいない。
一方は木造で、片方がコンクリートだとも言っていない。
だから、外観は同じ家なのだ。
最近は事情が違うようだが、少し前まで、日本人のほどんどは
自分は中流家庭であると自覚している。
みんな平均的な給料をもらい、そのなかでやりくりして、
旅行、ショッピング、趣味に、それなりに楽しんでいる。
そこそこ良い人で、悪人はほとんどいない。みんなそれなりにうまくやっている。
外観ではみないっしょなのだ。
違いは家の土台。つまり見えない生活。
友達や家族と離れて、一人となった時の生活。
この見えない生活が大切なのだ。
神との交わりを通して、神を愛し、
みことばがその人にとどまる。
神はその隠れたところで、ご自分に近づく者に報いてくださる。
そして、そのような隠れた生活を持っている人は
そんなに目立つわけではない。大きく人と違いがあるわけではない。
しかし、その違いがはっきりわかる時がある。
それは試練の日である。
嵐がやって来ると、隠れた生活を持っている人と
持っていない人の明暗が分かれる。
試練によって、信仰を捨てたり、だめになる場合、
試練が原因ではない。
もともと、土台がやわだったのだ。
間違った土台によって、信仰をやっていただけ。
人生がうまくいかなくなった人が「神がわからなくなりました」と言った。
もともと、わかってなかったんだよ。と言いたい。(言わないけど)
あるドクターが言っていた。
「健康はそれ自体を求めて得られるのではないよ。
十分な睡眠、バランスの取れた食事、適度な運動を継続して行った時に、
健康が自然と付録で付いてくるのよ。」
祝福とか、それ自体を求めるものではない。
神との隠れた生活の積み重ねによって、
自然と祝福は付録として付いて来るのだ。
そして、本当の嵐とは、裁きの日である。
人々の外側ではわからない生き方が
嵐によって、その土台がわかる。
「というのは、だれも、すでに据えられている土台のほかに、
ほかの物を据えることはできないからです。
その土台とはイエス・キリストです。」1コリント3章11節
あなたの土台は何ですか?
Posted by パスター・レイ at 09:00│Comments(0)
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