2009年11月14日
狭い門
『狭い門からはいりなさい。
滅びに至る門は大きく、その道は広いからです。
そして、そこからはいって行く者が多いのです。
いのちに至る門は小さく、その道は狭く、
それを見いだす者はまれです。』マタイ7:13-14
滅びに至る門は大きく、その道は広いからです。
そして、そこからはいって行く者が多いのです。
いのちに至る門は小さく、その道は狭く、
それを見いだす者はまれです。』マタイ7:13-14
大学受験の言う「狭き門」とは意味が違う。
いや、むしろ神の国に入るのは、自分の手にある力に頼ることをやめ、
自分はまったく無力だと認めて、身を低くして、
その門をくぐるのでないといけない。
日本ではプロテスタント教会に所属している人が人口の1%。
じっさいに、礼拝に集う人は30万人もいないというから、
ほんとうに、わずか一握りである。
それだけを考えるなら、日本でジーザスに信仰をもつことは、
狭き門をくぐったことになる。
「ジーザスを信じた時のことを話してみて」
と頼むと、だいたい、みんなはっきり覚えていて、
具体的にその時のことを語れる。
ほとんどの人が、人生で一番、身を低くされた時ではないだろうか?
ボクも二十歳前後に、大学受験失敗、失恋など、いろんなことが重なって、
大人のスタートもまともにできない状態で、苦悩した。
それらの挫折は、単にきっかけであって、
その前から、自分の人生には穴が開いていた。
いつか、沈没するだとうとは、うすうすわかったいた。
それが、考えていたより、早かったということだ。
その頃は、毎日、朝を迎えると、周りの景色が灰色に見えた。
夜遅くまで遊び歩いても、その時は気休めになるが、
その分、酔いから冷めた朝がつらかった。
まだ、二十歳そこそこだったのに、もう十分だと思えた。
そんなときに、友人からジーザスを伝えられ、
バイブルをプレゼントしてもらった。
苦しみから助けてくださいとか、
人生を良くしてくださいなど願ったわけではなかった。
正直、もう生きるのは砂を噛むようで、改善してほしいと思わなかった。
ただ、今、神がいるのなら、
どのような神なのか知りたかった。
それで、それから1年ぐらい、神に会う準備というか、
いつでも、来ても恥ずかしくないように、生活を始めていた。
中学から吸っていたたばこをやめ、
その日から、バイブルを5章づつ読み、朝、夕と祈っていた。
靴屋のマルチンのように、神を出迎える日を待ち望む日々であった。
結論から言うと、1年後に神はボクに逢いに来てくれた。
その時期は、自分がもっとも惨めで、弱く、生きること自体が心細く、
つつけば崩れるような、繊細な心になっていた。
そんな、ただ、神を待ち望む自分を、天の門に迎えてくれた。
門をくぐったら、天国に進む、さらに細き道がある。
神を信じたとしても、その後、細き道を進まないといけない。
それも、自分の誇りを放棄する道である。
天国はこの世界とまったく逆の原理で動いている。
受けたいのなら、与えなさい。
高くされたいのなら、低くなりなさい。
あなたを豊かにする人よりも、何のお返しもできない
貧しく、弱い人を相手にしなさい。
華やかな、見栄えのする世界ではなく、
誰も見向きもしない、魅力のない世界を見つめなさい。
命を得ようとしないで、捨てる生き方をしなさい。
みんなに認められる道ではなく、神の道(拒絶)を進みなさい。
そのような道は狭く、小さい道。
そして、「それを見いだす者はまれです。」
神への道は多くの人から隠されている。
それを見つけた人は幸いである。
山上の説教は、それだけを教えている気がする。
いや、むしろ神の国に入るのは、自分の手にある力に頼ることをやめ、
自分はまったく無力だと認めて、身を低くして、
その門をくぐるのでないといけない。
日本ではプロテスタント教会に所属している人が人口の1%。
じっさいに、礼拝に集う人は30万人もいないというから、
ほんとうに、わずか一握りである。
それだけを考えるなら、日本でジーザスに信仰をもつことは、
狭き門をくぐったことになる。
「ジーザスを信じた時のことを話してみて」
と頼むと、だいたい、みんなはっきり覚えていて、
具体的にその時のことを語れる。
ほとんどの人が、人生で一番、身を低くされた時ではないだろうか?
ボクも二十歳前後に、大学受験失敗、失恋など、いろんなことが重なって、
大人のスタートもまともにできない状態で、苦悩した。
それらの挫折は、単にきっかけであって、
その前から、自分の人生には穴が開いていた。
いつか、沈没するだとうとは、うすうすわかったいた。
それが、考えていたより、早かったということだ。
その頃は、毎日、朝を迎えると、周りの景色が灰色に見えた。
夜遅くまで遊び歩いても、その時は気休めになるが、
その分、酔いから冷めた朝がつらかった。
まだ、二十歳そこそこだったのに、もう十分だと思えた。
そんなときに、友人からジーザスを伝えられ、
バイブルをプレゼントしてもらった。
苦しみから助けてくださいとか、
人生を良くしてくださいなど願ったわけではなかった。
正直、もう生きるのは砂を噛むようで、改善してほしいと思わなかった。
ただ、今、神がいるのなら、
どのような神なのか知りたかった。
それで、それから1年ぐらい、神に会う準備というか、
いつでも、来ても恥ずかしくないように、生活を始めていた。
中学から吸っていたたばこをやめ、
その日から、バイブルを5章づつ読み、朝、夕と祈っていた。
靴屋のマルチンのように、神を出迎える日を待ち望む日々であった。
結論から言うと、1年後に神はボクに逢いに来てくれた。
その時期は、自分がもっとも惨めで、弱く、生きること自体が心細く、
つつけば崩れるような、繊細な心になっていた。
そんな、ただ、神を待ち望む自分を、天の門に迎えてくれた。
門をくぐったら、天国に進む、さらに細き道がある。
神を信じたとしても、その後、細き道を進まないといけない。
それも、自分の誇りを放棄する道である。
天国はこの世界とまったく逆の原理で動いている。
受けたいのなら、与えなさい。
高くされたいのなら、低くなりなさい。
あなたを豊かにする人よりも、何のお返しもできない
貧しく、弱い人を相手にしなさい。
華やかな、見栄えのする世界ではなく、
誰も見向きもしない、魅力のない世界を見つめなさい。
命を得ようとしないで、捨てる生き方をしなさい。
みんなに認められる道ではなく、神の道(拒絶)を進みなさい。
そのような道は狭く、小さい道。
そして、「それを見いだす者はまれです。」
神への道は多くの人から隠されている。
それを見つけた人は幸いである。
山上の説教は、それだけを教えている気がする。
Posted by パスター・レイ at 09:16│Comments(0)
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