2009年09月06日
心を灯す目(バイブル)

台湾からTJ&アンジェラ牧師夫妻が来沖して、
いろいろシェアしてくれました。
『からだのあかりは目です。それで、
もしあなたの目が健全なら、
あなたの全身が明るいが、
もし、目が悪ければ、あなたの全身が暗いでしょう。
それなら、もしあなたのうちの光が暗ければ、
その暗さはどんなでしょう。』
マタイ6章22、23節
ここで言うからだとは人格とか心を表現している。
からだ全身とは、心の全領域と言ってもいい。
そのからだ(心)を明るくするか、暗くするかは、
光を取り入れる目にかかっている。
目とは視点であり、私たちは関心を払い、集中しているもの。
お金に関心を払う人は、お金に捕われる。
人の興味を惹きたい人は、人に合わせて捕われる。
バイブルは「ジーザスに集中して、焦点を合わせなさい(ヘブル12:2)」
と言っている。
ジーザス自身と
ジーザスが与える永遠に続く富、その祝福を見上げるように。
初代教会時代はローマ帝国の支配下にあり、
法令で「カイザル(皇帝)を主として、ひれ伏すように」
と決められていた。公の場所で、カイザルに対しての忠誠を示すために
「カイザルは主です」と言って、拝する儀礼があった。
クリスチャンにとって問題があった。
それはバイブルには「ジーザスは主です」とある。
主とはギリシャ語でキュリオスと言って、
絶対的に服従し、支配する存在だ。
「誰でも二人の主人に仕えることはできない」
そう、カイザルが主なのか、ジーザスが主なのか明確にしないと
旗を上げないといけないくなった。
もし、カイザルにひれ伏さないなら処罰された。
映画のグラディエーターにあるように、
クリスチャンすべてが、その時代ライオンと決闘させられたわけではない。
それは一部の牧師とか、指導者であって、
普通のクリスチャンは処刑にはならなかった。
ただ、商売に制約を受けたり、共同体からの村八分があった。
もし、ジーザス以外のもの、お金とか人との関係を大切にしている人は、
そこではっきりとわかってしまう。
バイブルには中間はない。
熱いか冷たいか。ハイかいいえのどちらかであって、
ジーザスを愛しているなら世を憎んでいるし、
世を愛しているならジーザスは主ではない。
どんなに日曜日に教会に来て、賛美歌を歌い、説教聴いていても、
それだけではジーザスが主になっているのかはわからない。
はっきりわかるのは、
その人の心に光がともされているなら、希望があるのなら、
その人の主はジーザスである。
目は一点しか集中できない。
2つには焦点が合わない。
だから、人は何か一点に集中している。
誰かに恋焦がれている人は、その人のことだけで
他は見えていない。
ジーザスを見ている人は、他のものに惑わされない。
騙される人、惑わされる人。そういう人は
そもそもジーザス以外のものを見ていただけである。
何に焦点を合わせているか。
それで人生が決まる。
Posted by パスター・レイ at 16:51│Comments(0)
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