2009年08月23日
日ごとの糧を

以前、うちの教会に80歳ぐらいのお婆ちゃんがいた。
彼女は慶良間諸島の出身で、島はみんなが貧しかったという。
朝、起きたらまず海に出かけ、潮干狩り。
貝とかとったら、家でおつゆにして家族で食べた。
それが朝食。
そして、すぐに森に入って、山菜とか食べられそうなものを探す。
そうやって、その日食べるたのものを得るために必死だったという。
そんな時代に生きていたなら、
「今日の必要な糧を与えてください」の祈りがリアルになる。
しかし、この飽食の時代にこの祈りは必要だろうか。
ボクらは体を支えるパンだけで生きる存在ではなく、
スピリチャルな存在だ。
「人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出ることばで生きる」
とジーザスは言いました。
また、ヨハネ4章34節で「父なる神のみこころを行うことが
わたしの食事だ」
そう、神のビジョンを描いて、それを成し遂げていく。
これが、ほんとうの意味で生きているということ。
「幻(ビジョン)のない民は滅びる」
なぜ、祈らずに生きていけるのか?
なぜ、祈らずにやっていけるのか?
それは、自分のできる範囲でしか行動しないから。
人生をチャレンジしないから。
イスラエルの民は荒野でお腹が空いた時、天からマナが降ってきた。
それは甘く柔らかい、そして、おいしいたべものだった。
最初、振ってきたときは感動であったろう。
ボクも一度はマナを食べてみたいよ。
しかし、毎日、毎日、同じマナを食べているうちに
みんな飽きてきた。
「エジプトで食べた肉や野菜がなつかしい」
つぶやくようになった。
本土の友人が最近、沖縄に遊びに来て、
毎日、時間を見つけては泳いで、真黒に日焼けした。
「ウチナーンチュはなぜ、泳がないの?こんな青い海を前にして
チョーもったいないんだけど」
そう言われても、物心ついたときから、この海を見てて、
あまり感動もないし、いつでも泳げると思ったら、
なかなか泳がないし。わかるよね、ウチナーンチュだったら。
人間は、どんな素晴らしいものも、何度も繰り返し見ていたら、
感動しなくなる。
和田先生の本で「人は感情から老化する」という本がある。
感動を失った時、脳は使われなくなり、それとともに体も老化する。
「もう年だから」その考えが脳を衰えさせ、老化させる。
日野原重明先生は現在、新しい病院を建設するビジョンを持って、
その責任者となっているとどこかに書いてあった。
もう、100歳過ぎているんだよ。すごいな。
毎日、プログラム化された毎日に感動はない。
新しいことにチャレンジしないなら、自分の力でやっていける。
そしたら、当然、「助けてください。必要を満たしてください」と
祈る必要もない。
自分では不可能と思える壁があるから、乗り越えようと必死になる。
大きなビジョンにチャレンジするから、
偉大な御方とつながりを求める。
自分でやっていける人生。これほど退屈な日々はない。
この日本で、沖縄で神の救いを見たい。
その一端を担いたい。
自分も神の救いの働きに参加したい。
そのために、人生にチャレンジする。
この心をもち、行動するなら、
「今日の必要を満たしてください」
と祈る者になっていくだろう。
Posted by パスター・レイ at 06:57│Comments(0)
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