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2009年08月09日

アバ父

ジーザスは弟子たちが「祈りを教えてほしい」とお願いされた時、

主の祈りを教えた。

その呼びかけはこうだ。  「アバ」

イスラエルに行くと、小さい子供が 「アバ」と

呼ぶのが聞こえる。

ユダヤ教の中でも神様のことを「父よ」と呼びかけることはある。

それは尊敬がこもっているだろうが、親しみからは程遠い。

ボクらは大人になっても、父親は「父さん」「おやじ」とかで呼ぶだろう。

しかし、「アバ」は小さい子供が呼ぶ言葉だ。

教会でも小さい男の子が「おとうたん」と呼ぶ。

まさに、そんな呼びかけだ。

何で、あえて「アバ」と呼ぶように教えたのか。

ティーンエージャーの子供になると、

自我が芽生え、親に反抗し、友達とか、外の世界が重要になってくる。

親や家族がうざいと思うようになる子供もいる。

親と一緒に歩くのを恥ずかしくなったり、

これらは、自立への転換期であり、人間として大切な通過点だ。


このような独立に向かうティーンエイジャーと違い。

小さな子供はどうだろう。

小さな子は学校にも言っていないので、親がすべてである。

自分がどういう存在なのかなど、考えることもない。

親が自分を守ってくれるのか、いつもそばにいてくれるのか、

親自体が自分のアイデンティティなのだ。

親から分離して自分なんてありえない。

ただ、親が自分を支え、扶養してくれさすれば安息できる存在である。

ジーザスは天の父にまったく依存した小さな子供のように

「アバ」と呼びかけてほしいと願っている。

エペソ2章1~5節では、孤児のように捨てられた人間を

天の父はあえて引き取り、ご自分の子にしたと言っている。

昔、ルーマニアでチャウチェスク大統領が国を大きくするために

子供をたくさん産むように、国民に強制した。

貧しい国民は生んだはいいが、育てることができず、

ルーマニアでは路上で生活する捨てられた子供たちがどこにでもいた。

冷戦が終わって、その子供たちをアメリカのクリスチャンの夫婦が

引き取って、自分の養子にして育てた。

路上で育った子供を育てるのは容易ではない。

躾や教育などないし、野獣のようで、愛を知らない恐れと怒りに満ちた子供たち。

彼らはそのような傷ついた子供を愛情を注ぎ、育てていった。


天の父も愛に飢えたボクらを、自分の子にして、

育てようとしている。

人間は神から独立して生きる存在ではなく、天の父に

「アバ」とまったく頼った存在になってほしいと願っている。


神をヘブル語で「エルシャダイ」と言うが、

語源は「乳房」だと言う。

赤ちゃんは肉を食べないし、コーラも飲まない。

いただくのは母乳だけ。

その母乳には赤ちゃんが生きるために必要の栄養が含まれている。

天の父にはすべてがある。

天の父がいれば、十分。それ以外になにもいらない。

そのことが言いたいから エルシャダイと言っているのかもしれない。


アダムとイブが罪を犯して果実を口にした時、

悪魔は「これを食べたら神のようになれる」と誘惑した。

おかしな話だ。

なぜなら、神の子なのだから、神のような存在だからだ(神そのものではないよ)。

天の父はご自分のイメージを反映して、ボクらを造り、

ご自分のきよさ、豊かさを与えた。

天の父が豊かなので、造られたそのままで、ボクらはすべてを持っていた。

しかし、アダム夫妻は、神から独立して、自分を高めたいと思った。

神から分離された、すぐれた自分を見出したいと。

それは、今、人と比べて、いかに自分がたいしたものかを自己証明するかのように

必死にがんばり背伸びするボクたちに引き継がれている。


そんな、見栄や、独立心を捨て、小さい子供のように

「アバ とうたん」と呼びかけてみよう。

あなたの必要は全部、満たされる。


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Posted by パスター・レイ at 08:28│Comments(0)バイブル
 
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