2009年01月18日
どこに価値を見出すのか
美浜の空にかかった虹です。
カトリックの司祭であるヘンリ・ナーウェンに、
普段、親しくしていた友人がいた。
彼は誠実で、社会活動を精力的に行い、
貧しい人たちを助けて来た。
しかし、その友人が50歳にして、
癌に倒れてしまった。
その友人がナーウェンを病院に来てくれるように連絡があった。
ベットのそばにやってきたナーウェンの顔を友人は確認すると、
「ヘンリ。ボクは多くの貧しい人たちのために奉仕してきた。
そして、役に立っていたと思う。
たくさんの良いことを、今まではできた。
しかし、今は、ごらんのように、ボクはベットで寝ているだけの生活だ。
人の世話になるばかりで、何も良いことはできない体だ。
今の自分をどうとらえたら良いのか、教えてほしい。」
この男性のように、ボクらは「自分はどれだけのことができるか」
を模索しているように思う。
何かができる。そこに価値をおく。
しかし、何もできない自分、そのような自分に直面すると、
その人は何を大切に生きたらいいのだろうか。
人の生きがいが「何かを成す」、「何かを建て上げる」ことであるならば、
癌に倒れた彼には絶望しかない。
人間の存在自体に尊厳がなければ、
生きる価値を見失ってしまう。
製品として務め終えた物は捨てられる。
ゴミの山にあるガラクタに、価値を払う者はいないだろう。
社会で貢献できない自分をどうとらえたらいいのか。
しかし、神は愚かな人間という存在に価値があると言われた。
「しかし私たちがまだ罪人であったとき、
キリストが私たちのために死んでくださったことにより、
神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。 」
ローマ書5:8.
何もできない自分、
いや、愚かでみじめな自分が、
そのままの状態で
「お前を愛しているんだ」
その声を聴かないと、
尊厳をもつことはできない。
Posted by パスター・レイ at 07:23│Comments(0)
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