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2008年10月19日

しばしの別れ

この前、ある告別式に参列したんですけど、

那覇市のセレモニーホールで仏式でしたが、

焼香の時、どこかで聴いた音楽が。。。

「タ~ラ~ タラララ~ タ~タ~。。。」

「ああアメイジング・グレースじゃん」

何で、仏式でアメイジンググレースなんだろう?

そう言えば、祭壇も仏教なのか、キリスト教なのかわからんような

華やかなお花が飾られている。


結婚式はだいぶ認知されましたけど、キリスト教の葬儀は

一般の日本人はあまり体験することも少ないだろう。

告別式の司式をして、よく言われるのが、

「教会で葬式やるのもいいですね。私の葬儀もお願いしようかな。」

なんて、冗談なのか本気かわからないが、

気に入ってくれたのは確かなようだ。

教会の葬式ももちろん死別するのだから、悲しくないはずはない。

ただ、聖書の約束にあるように、

クリスチャンは天国を信じている。

だから、永久の別れとは誰も思っていない。

いずれ、天国で再開する「しばしの別れ」なのだ。

だから、希望を持って、故人を送りだす。

かの内村鑑三は娘のルツ子を19歳で亡くした。

その葬儀でルツ子の棺を送りだす際、涙をこらえながらも

「ルツ子さんは主のもとに嫁入りしたのである。

今日は告別式ではなく、結婚式である。ルツ子さん、万歳。」

と両手を挙げて、絶叫したそうだ。

その葬儀に参列していた、後の東大総長になる矢内原忠雄は

その時のことが衝撃的だったようで、

「私はカミナリ に打たれたように身がすくんでしまった」

そして、そのままクリスチャンになった。

人間の心の深くにある漠然とした恐れ、不安、その原因は

人間がいつか死ぬ存在だということを、

無意識に人は知っているのだろう。

しかし、キリストはその死をクリアした。




「キリストは死者の中からよみがえって、

もはや死ぬことはなく、死はもはやキリストを支配しないことを、

私たちは知っています。 」ローマ6:9


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Posted by パスター・レイ at 22:10│Comments(2)コラム
この記事へのコメント
お久し振りです。死別、死は全ての人が向き合う、持っているテーマ。そして、世の価値観と全く違う希望がある、これが一番の違いなのかもしれないですね。私の祖母のお葬式があまりにステキで、いつも”おばちゃんの結婚式の時”って言ってしまってたほど。悲しみの中にも希望が、喜びがあった。思い出してしまった。私も楽しみにしてよ~!?
Posted by ちかこ at 2008年10月20日 14:48
>>ちかこさんへ 
ホント、ひさしぶりです。この希望でどれだけ、救われたかしれません。
身近に、自分の告別式のプログラムを作っている人もいますよ。
こんな積極的に考えられるには、死が終わりでないからですね。
Posted by パスターレイ at 2008年10月20日 20:17
 
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