『祝宴の家に行くよりは、喪中の家に行くほうがよい。そこには、すべての人の終わりがあり、
生きている者がそれを心に留めるようになるからだ。』
これはバイブルの言葉だけど、
職業柄、よく出入りする場所が、病院、葬儀場。。
よく接触する人が、病気(体、精神)の人、その他トラブルを持った人。
たまに、こんな日常、逃げたいと思う時がある。
普通なら日常では避けたい場所、人ですから。
どんなに、自分を奮い立たせて、明るくなろうとしても、人々の人生の影を常々見ていると、
なんだかね~。
病院も、末期の癌の方が多い、ホスピス(余命短い方が入院している病棟)に出入りしています。
2週間前に、そこに行った時、ある男性に呼び止められた。
「神父さんですか?」
「えっ」
「ちょっと来てくださいませんか?」
呼び止められて、ある病室に入ったら、そこに、人工呼吸器にガリガリに痩せた初老の男性がいた。
もう、今夜がやまだと言われたらしく、最後に祈って欲しいと頼まれた。
カトリックの人だったみたいでした。
「ボク、プロテスタントですが、よろしいですか?」
「かまいません」
それで、聖書を読んで、心を込めて祈り出した。
娘さんらしき人がしくしく泣いていた。
みんな覚悟はできているみたいで、祈っただけなんだけど、深くお礼をしてくださった。
先週は、30代の女性が癌で亡くなった。
なんとか、治ってほしかったんですけど、急変してしまった。
不思議に、前日に祈るために病院に行った。
呼吸が苦しそうでしたが、祈って、帰ろうとしたら、細い声で「ありがとう」と言った。
泣きじゃくるお母さんに、希望をもちましょうと励まして、その翌日のことでした。
はっきり言って、人を支えていく、敬虔さもないし、技術や経験もあるわけでもない。
本当は、悲しむ本人や家族を前にして、激しく動揺しているけど、
牧師という手前、どっしり構えている感じに振舞います。
まあ、体がでかいので、見た目はそう見えるみたい。
また、少し前には、精神科でボランティアをやって、讃美歌を一緒に歌ったり、祈ったりしていました。
10人ぐらい集めてやりますが、まともに相手できるのは、2、3人で、
残りは叫ぶし、テーブルたたくし、独り言言っているし、寝るし、
なぜか、顔中傷だらけだし、持ってきた歌集をつばたっぷりつけてめくるし、、、
「ええい。ふざけんなあ」とボランティアであることを忘れそうになってしまうこともたびたびありました。
何か、良い兆しが見えたり、改善するなんてのは、ごくごく一部で、
本当に、無力感に悩まされることが多いです。
でも、人の喜びの瞬間を共有するのもいいけど、痛みや悲しみを一緒にいられるのも、
なんか、このごろ、いいかなと思うようになりました。
やっぱり、バイブルのことばは深みがあるなあと。