今日のバイボー(135)
「また、市場から帰ったときには、からだをき よめてからでないと食事をしない。
まだこ のほかにも、杯、水差し、銅器を洗うこと など、
堅く守るように伝えられた、しきたりがたくさんある─」マルコ7:4。
雨の少ないイスラエルでは、水はたいへん貴重なはずなのに、
宗教儀礼として、こんなに水を使ってもったいないです。
ユダヤ人と日本人は多くの共通点があると言われますが、
「きよめ」の概念もとても似ています。
日本人も朝風呂に入る人は多いですし、抗菌グッズも売れています。
とにかく外からの汚れを恐れる国民性があります。
現代では「~恐怖症」とかいいますね。
脅迫的に汚れを恐れます。
なぜ、そのような心の状態になるのでしょう?
それは自分の心を見たくないからです。
心の問題に取り組むのは、汚い自分を認める作業なので、
その代償行為としてこのような症状が起こります。
問題を内面に向けない限り、この症状は治りません。
むしろ、自分の問題を避けるために、
このきよめの行為は不可欠なのです。
そして、本人はこのきよめの行為で自分は守られると錯覚して、
心の欺瞞にいつまでも気づかないのです。
パリサイ人たちは、人格的な神との関係を結ぶことを避けました。
それは自分の心を神様に明け渡すことだからです。
それをしないで、外側をきよめることで、神に従っていると考えていました。
難儀な行為に見えますが、むしろ、宗教熱心なことが楽であったりするのです、
このような儀式はまったく無意味なのです。
どんなに宗教熱心であったり、外側の脅迫的なきよめをやっても、
心の平安は訪れません。
自分の汚い心をそのまま、神様の御前で認めて、
主イエスの血潮できよめていただく以外にありません。
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