今日のバイボー(135)

パスター・レイ

2012年03月22日 06:26

「また、市場から帰ったときには、からだをき よめてからでないと食事をしない。
まだこ のほかにも、杯、水差し、銅器を洗うこと など、
堅く守るように伝えられた、しきたりがたくさんある─」マルコ7:4。


雨の少ないイスラエルでは、水はたいへん貴重なはずなのに、

宗教儀礼として、こんなに水を使ってもったいないです。

ユダヤ人と日本人は多くの共通点があると言われますが、

「きよめ」の概念もとても似ています。

日本人も朝風呂に入る人は多いですし、抗菌グッズも売れています。

とにかく外からの汚れを恐れる国民性があります。

現代では「~恐怖症」とかいいますね。

脅迫的に汚れを恐れます。

なぜ、そのような心の状態になるのでしょう?

それは自分の心を見たくないからです。

心の問題に取り組むのは、汚い自分を認める作業なので、

その代償行為としてこのような症状が起こります。

問題を内面に向けない限り、この症状は治りません。

むしろ、自分の問題を避けるために、

このきよめの行為は不可欠なのです。

そして、本人はこのきよめの行為で自分は守られると錯覚して、

心の欺瞞にいつまでも気づかないのです。

パリサイ人たちは、人格的な神との関係を結ぶことを避けました。

それは自分の心を神様に明け渡すことだからです。

それをしないで、外側をきよめることで、神に従っていると考えていました。

難儀な行為に見えますが、むしろ、宗教熱心なことが楽であったりするのです、

このような儀式はまったく無意味なのです。

どんなに宗教熱心であったり、外側の脅迫的なきよめをやっても、

心の平安は訪れません。

自分の汚い心をそのまま、神様の御前で認めて、

主イエスの血潮できよめていただく以外にありません。

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