ちいろばで有名な榎本牧師が潮干狩り説教というのを流行らせました。
潮干狩りはバケツとスコップを持っていけば、
お年寄りも、子供でも貝を拾って楽しんで帰ることができる。
牧師の説教というのも、いろんな内容をちりばめて、
未信者にも、信じたばかりの人にも、ベテランのクリスチャンにも、
どんな対象にも何か1つを拾い上げて、満足して帰ってもらうということです。
そのような日本人らしい、すべての人に配慮した説教論(論でもないが)と言えます。
一見、種まきのたとえは、表面的にはわかりやすいです。
紙芝居にして子供でも楽しめる、そういう話です。
これを聞いた多くの人は、「このイエスという人の話はわかりやすいね」
とか相槌を打って、帰って行ったかもしれません。
まさに潮干狩り説教ですね。
しかし、このたとえ話にはわかりやすいようで、裏メッセージがあるんです。
10節で「なぜたとえで話すんですか?」弟子たちがいぶかっています。
質問するということは、今までの話の内容違うと、
違和感を感じたから質問したんです。
11節みことばの教えは奥義だから、みんなには教えない。
と言っているんですね。なぜでしょう?
12章で学んだように、
はじめイエス様は自分に近づいてくるすべての人を相手にして、
山上の説教とか、丁寧に、ある時は奇蹟を見せて、
自分がメシアだということを証言して教えた。
しかし、そのような誠実なイエス様の態度に度重なる不信仰を彼らは見せて、
最後は「彼はメシアではありません。ベルゼブル、悪霊の大将です」
と言ったわけです。この時点で、アプローチ方法を変えました。
心から神を求める人、神に従いたい人、そういう人にしかみことばは開かれない。
と言うことです。12節これは言葉悪いですが、「霊的格差社会」ではないでしょうか。
「不正を行なう者はますます不正を行ない、
汚れた者はますます汚れを行ないなさい。
正しい者はいよいよ正しいことを行ない、
聖徒はいよいよ聖なるものとされなさい。」 黙示録22:11
今までは日本のシステムが日本人を守っていたような気がします。
よくないことだが共依存で、支配する代わりに養ってくれていたわけです。
教会に来る人も、クリスチャンである前に日本人であった。
適当なクリスチャンでも国、社会が支えていた。
また、教会の伝統、システムの中で人間的な組織で守られていた。
本当は、神様が支えていたんではないですね。
でも、これからはそういうことがなくなる時代だと言えます。
神様に支えられて生きるか、あくまでも自分の生き方を通すか?
預言ではないけど、そういう時代にこれからなると思います。
神様に支えてもらう人生を生きる人はますます豊かになり、祝福されていく。
あくまでもみことばを愛するより、自力で生きたい人は、
その実を刈り取るでしょう。いちいちどうなるか言いませんが。
ここでのたとえは、みことばを聞かない未信者ではない。
みことばを聞いている人です。14、19、20、22節参照してください。
みんなみことばを聴いている。
教会に行かないのではない、来て、座って、みことばを聴いている。
何で悟らないで、種が実を結ばないかというと、動機が不純だからです。
教会に来る理由、イエス様を信じる理由が不純なんです。
いい話でも聴いて、仕事に役立てたい、安心したい、自分の人生を充実したい。
自分の何かを満たすため。これって、不純じゃないでしょうか。
何で私たちは教会に来るんですか?
それは、神様が神様であり、私たちの主であるから、
罪人の自分が滅びないで、十字架によって購われたから。
その神を神とし、その愛に応答するためにです。
そして、神が私たちに願うこと、求めていることに従って行くこと。
これが理由です。それ以外の動機で来たら、必ずつまずくし、
みことばがいくら語られても、悟れない。
心がみことばから芯をはずしているから、受け取れない。
現世利益を求めてくるなら、別に教会じゃなくてもいいわけです。
私たちは小手先の人生ではなく、神と生涯ともに歩む人生を送りたいわけです。
『しかし、あなたがたの目は見ているから幸いです。
また、あなたがたの耳は聞いているから幸いです。』マタイ13:16
イエス様は弟子たちをほめています。
すべてを捨てて、イエス様に従うことを優先にした人たち。
みことばを真摯な態度で聞き、それをより所とした仲間。
みことばを聞くことは、霊的超人になるとか、
立派な人になることではない。
ただ、イエス様の語ることに、真剣に聞き、
そして、自分のずれたところを、直していこうとする
へりくだった態度が大切。
『心を尽くし、思いを尽くし、知性を尽くし、力を尽くして、
あなたの神である主を愛せよ。』 マルコ12:30.
オーストラリアで、未開地にある部族が発見された。
その人たちは、一夫多妻でした。
そして、夫は妻に気に入らない時、
逆上して殺して食べてしまうという信じられない常識があったそうだ。
妻はビクビクしながら、夫に従っていたわけです。
そんな部族に宣教師が入って、みことばを伝えて、
彼らはイエスを信じました。
みことばを学んだんです。
そして、文明人には当たり前ですが、殺してはならない、
妻を愛し、大切にすることを教えられるわけです。
ある礼拝に行く朝、一人の部族の男が、妻ともめている。
頭にきて、妻を蹴っ飛ばしている。
しかし、それで自制を働かせた。
彼の心にはみことばの種が植えられていたのだ。
確かに、妻を蹴飛ばすのはよくない。
しかし、今まではその時点で妻を殺して、食べていた人たちなのだ。
それが、殺さなくなった。もちろん、食べなくなった。
彼らの心に神に従いたいという、心があるわけです。
その心が大切です。
どんなに道徳的に立派で、人格者であっても、
まことの父である神を無視して、従わない人より、
たとえ、いろいろ問題があっても、
父を愛し、その教えに耳を傾け、
それに従って、父とともに生きたいと願っている。
そういう人を神は祝福し、その人はみことばから悟りを得て、
神の隠された奥義を知ることが許される。