『偽善者たち。まず自分の目から梁を取りのけなさい。
そうすれば、はっきり見えて、兄弟の目からも、
ちりを取り除くことができます。』マタイ7:5
以前、近くで新築の家が完成して見学会をしていたので、
中を覗いてみることにした。
見事な日本家屋で、でかい柱と梁があった。
家主がこだわって、何百万もかけて屋久杉を使ったそうだ。
普通、柱とか梁は、家の見せ所であり、一番目立つはずだ。
しかし、ここで自分の目の梁に気がつかないと喩えられている。
それは、その心の問題が盲点になっているからだ。
自分の心の醜い部分、都合が悪くて、触れたくない、
そういう部分があって、
それを認知できていないか、認めたくない場合、
その部分が心の盲点になります。
その部分に関しては抜け落ちる、ブラインドがかかるわけです。
そして、その自分の醜い同じ部分を他人に見ると、裁かずにはおれなくなる。
簡単に流せない、ムキになる。こだわってしまう。
それはただ、自分の問題が外と共鳴したにすぎない。
人の問題ではなく、自分の問題である。
人に傷つけられたと言う表現は、自己のできていない子供ならわかるが、
人格が形成された大人に関しては、ある意味正しくない。
なぜなら、自分の許しなしに、人は自分を傷つけることはできないからだ。
人に「のろま」と言われて、傷ついたとするなら、
それは自分が自分をのろまだと信じている。
それを他人が言って、心がその言葉に共鳴したまで。
ボクは学生時代は心が荒んでいて、やりたい放題だった。
だから、今、後悔がある。
もう少し、勉強しとけばと。
だから、とくに勉強しない次女には何か、穏やかではない感情で注意する。
それは、自分の無力感がしていること。
自分のその心の奥底を十字架にさらして、覆ってもらうことだ。
自分をたいした人間だと思いたいプライドは捨てて、
虫けらのような弱い自分を愛しているジーザスを拠り所にすること。
パウロはローマ1章で異邦人の罪を並べ立てたあと、
2章に入って「ですから、他人をさばく人よ。あなたも同じことをやっています」
と矛先をユダヤ人に向けている。
表面的な行為には個人差はあるが、
同じ、罪の種を持っている。同じ罪人。
だから、人の誤りを指摘する場合は、自分も罪人だと自覚した上で忠告する。
ボクは過去に深く悔い改めに導かれたことが3回ほどある。
そのうちの2回は他人が涙を流して、悔い改めるのを見た時、
自分にも同じ問題があるのを悟って、自然と悔い改めさせられた。
もし、同じ問題を「あなたの罪です」と指差されたら、
たぶん、頑なになって、自己防衛にはしっていただろう。
他人が謙虚に身を低くした姿を見たゆえに自分も自分の問題に向き合えた。
別に、人の問題を指摘せずとも、
そのような自分を低くする人を通して、自分の問題を見つめるようになる。
ジーザスは罪なきお方であられるのに、
バプテスマを受けて、罪人のように自分を卑しくして歩まれた。
そして、義人であるジーザスが、罪人の私たちに「和解してほしい」
と懇願しておられると書いてある(Ⅱコリント5章)。
その和解を受け入れ、心と折り合いをつけること。
すべては自分の心にあること。
それが、すべての解決の道。