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2014年11月21日

高慢なエドム人

「あなたの心の高慢は自分自身を欺いた。
 あなたは岩の裂け目に住み、高い所を住まいとし、
「だれが私を地に引きずり降ろせようか。」
と心のうちに言っている。」オバデヤ3節。

エドム人を一言で言うと「高慢」です。

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Posted by パスター・レイ at 07:32Comments(0)バイブル

2014年10月31日

愛によって働く信仰

「キリスト・イエスにあっては、割礼を受ける受けないは大事なことではなく、
愛によって働く信仰だけが大事なのです。」ガラテヤ5章6節。


神様を喜ばせ、受け入れてもらうにはどうしたらいいのか?

私たちはそのために奉仕をし、頑張ってしまうことがあります。

しかし、割礼に代表されるように、私たちの行い自体は神様に認められるのではありません。

どんなに熱心に祈り、聖書を読み、十分の一を捧げても、

それ自体が喜ばれるのではありません。

そう言われた時、「だったらやらない」と言う気持ちになった人は

なおさらやらない方がいいのです。

そこには自分の犠牲によって神に喜ばれようとしている動機があります。

そういう動機で仕える人は、受け入れられないとわかった時に、

奉仕を止めてしまいます。

私たちが神に仕える目的は、

すでにキリストによって愛され、受け入れられているからです。

その愛に感動し、誰からも強いられてではなく、何かを得たいからでもなく、

ただ、このお方に応えたい、ともに生きて、時間を過ごしたい。

それだけの理由からです。奉仕に何もひもはついていません。

その時に、神様は私たちの中に生きている愛によって動かされる信仰を喜ばれるのです。

その時の行いを褒められた時、その人は、

「いつ、そんなことしました?」

と自分が正しいことにさえ気づいていないのです。

その人はただ愛によって動かされ、

夢中で応答したのですから。  


Posted by パスター・レイ at 06:43Comments(0)バイブル

2014年10月24日

霊的メタボ

「エシュルンは肥え太ったとき、足でけった。
あなたはむさぼり食って、肥え太った。
自分を造った神を捨て、自分の救いの岩を軽んじた。」申命記32章15節。


キリスト教は西洋の宗教と言うイメージがありますが、

現代で福音が広がっているのは、中国、インドネシア、アフリカ、南米など

がリバイバルしています。

ヨーロッパは日本とほとんど変わらない暗黒状態です。

リバイバルが起こっている国の共通点はみな貧しく、

時に迫害もある、信仰を保つのに楽な環境ではない国々です。

隣の韓国はキリスト教国と言われますが、

クリスチャンの不祥事は未信者と同じぐらい多いのです。

なぜなら、信仰をこの世の繁栄の目的に使っているからです。

私たちは肉が満たされると、はかない一時的な満足に身を委ねて生きるようになります。

そして、霊的メタボになって、後に深刻な問題が山積みになって、

気づいた時には大きな代償を支払わされます。

もっとお金、もっと楽しい時間、もっといやし、

このもっとを求める生き方が、霊的な脂肪として蓄積されるのです。

霊的メタボに気をつけて、生活をシンプルにしておかないと、

神のために身動きが取れない不自由な身になってしまいます。

気をつけよう。  


Posted by パスター・レイ at 06:37Comments(0)バイブル

2013年10月17日

昨日のセCS戦

昨日の、セリーグCS戦は、テレビは沖縄では放送されていなかったので残念。

ニュースで最終回の広島の攻撃を見ましたが、見所がありましたね。

ショートへの内野安打で、2塁走者が3塁オーバーランで試合終了。

打球が外野に抜けた時は、ランナーは勢いをつけないと、ホームに返れないから、

仕方なかったですね。

今回は坂本がよくボールを止めたと言うことで。

広島は1勝不利の立場でステージに入っているのだから、

どんどん攻めないと王者の巨人には勝てない。

だから、これでめげないで、どんどん積極的に次の塁を狙ってほしいです。

そう言いつつ、ジャイアンツフアンなんですが。

面白い方がいいので、広島もガンバレ。  


Posted by パスター・レイ at 10:52Comments(0)スポーツ

2013年08月16日

今日のバイボー(253)

「主はこう仰せられる。わたしが、わたしの民イスラエルに継がせた相続地を
侵す悪い隣国の民について。見よ、わたしは彼らをその土地から引き抜き、
ユダの家も彼らの中から引き抜く。」エレミヤ12章14節。


神様に背き続けたイスラエルに対して、

ずっと神様は悲しまれ、

もう彼らを面倒見ないし、私の民ではないと

見捨てたかのように厳しく言い放ちました。

しかし、ここでまた、優しい言葉をかけ、敵国から彼らを守ると約束されました。

ふたたび彼らを「わたしの民」と呼んでいます。

ある牧師と一緒に働きをしていた青年がいましたが、

彼には問題が多く、何度も約束を破ったり、問題行動が重なったために、

牧師は怒って、「もう。君とは一緒にできないよ。ごめんだ。」と突き放しました。

その言葉を聞いた青年はひどく落ち込み、離れて行きました。

しばらくしてその牧師はその青年と会って言いました。

「君はぼくの怒った言葉を聞いて、簡単に引き下がるんだね。」

と涙を浮かべていました。

牧師は青年のいい加減さに怒っていましたが、

だからと言って、見捨てたわけでもなく、

関係をあきらめたのでもなかったのです。

預言書にはイスラエルに対する神様の怒りと嘆きの声が多くあります。

もう見放したかのような言葉もありますが、それが真意ではないのです。

その言葉の背後にある痛みと悲しみを知らないといけないのです。

ご自身に立ち返ってほしいのです。

悔い改めて、関係をやり直して欲しいのです。

厳しく扱われたからと言って、簡単に離れる人は

神様の心を理解していないのです。  


Posted by パスター・レイ at 07:38Comments(0)バイブル

2013年08月12日

今日のバイボー(252)

「ヤコブの分け前はこんなものではない。主は万物を造る方。」エレミヤ10章13節。

エジプトには豊かな水が流れるナイル川を神様は与えました。

ツロやペリシテには世界と貿易できる海を与えました。

バビロンには数学、天文学、建築学などの英知を与えました。

それぞれ豊かな分け前をもらった各諸国は繁栄しました。

神様は良いお方です。

そして、小さな国イスラエルにも神様は分け前を下さいました。

イスラエルが受けた分け前、

それは神様ご自身だと言っています。

他の大きな国々には自分を分かち合わないで、

イスラエルにだけご自身を与えました。


テレビをつけると才能に恵まれた人たちがたくさんいます。

芸に長けた人、

美男美女、

あらゆる分野のプロフェッショナル。

みんな良いものを神様から受けましたね。

そして、私たちに対しては、

神様ご自身が分け前なのです。

イスラエル同様、神様は私たちにもご自身を与えました。

なぜ、他の誰かではなくて、あなたなのでしょう。

それは永遠の神秘です。

神様を分け前としていただく、

これがどれだけ名誉で、

最大の祝福であるのか知っているでしょうか?

最大の恩恵に与りながら、

不足を覚えたような顔をして、

他の何かを求めていませんか。

あなたは最高に恵まれた方なのです。

詩篇119篇57節「主は私の受ける分です。」  


Posted by パスター・レイ at 07:17Comments(0)バイブル

2013年08月05日

今日のバイボー(251)

「また自分の息子、娘を火で焼くために、ベン・ヒノムの谷にある
トフェテに高き所を築いたが、これは、わたしが命じたこともなく、
思いつきもしなかったことだ。」エレミヤ7章31節。


エルサレムとオリブ山の間に谷がありますが、そこがベン・ヒノムの谷です。

その場所でかつてイスラエルにおいて幼児をいけにえとしてささげていたのです。

それをヨシア王が燃やしてゴミ捨て場にしました。

火が燃え続ける谷をゲヘナと呼び、地獄の象徴となりました。

子供をいけにえにする偶像礼拝。

現代の私たちはなかなか理解することが難しいのですが、

今と違って古代は不幸と隣り合わせでした。

あらゆる災いに人間は翻弄されました。

今よりずっと生きることが過酷な時代だったのです。

ですから、人は災いを遠ざけるために、

何とか神様(偶像)に自分を守ってもらいたいという切実な願いがありました。

自分の子供を捧げると言う行為は、人間の最大の犠牲行為です。

これ以上の犠牲はないのです。

この犠牲をまことの神様は一番忌み嫌われています。

これは人間が自分の犠牲や献身によって、

神の祝福を勝ち取ろうとする罪深い人間の宗教行為の本質だからです。

自分の行為で神に受け入れられようとすること。

神様はそれを忌み嫌います。

まことの愛と犠牲は神様から出て来るものです。

御子を私たちのために与え、私たちを受け入れるために

すべてのことをして下さったのは神様です。

それをただ信仰によって受け入れること。

信頼すること。

これがまことの信仰です。

自分の献身と犠牲に鍵があると思うと罠にはまります。  


Posted by パスター・レイ at 07:45Comments(0)バイブル

2013年07月29日

今日のバイボー(250)

「あの三十人の中には次の者がいた。ヨアブの兄弟アサエル。
ベツレヘムの出のドドの子エルハナン。・・」Ⅱサムエル23章24節。


敵が恐れるダビデの勇士たちが紹介されています。

彼らはイスラエル史上最強の戦う集団です。

そんな素晴らしい彼らが一番最初に登場した時に、

聖書は何と紹介しているでしょうか。

「また、困窮している者、負債のある者、
不満のある者たちもみな、彼のところに集まって来たので、
ダビデは彼らの長となった。(Ⅰサムエル22章2節)」


初め彼らは社会の吹きだまりとして、

誰にも相手にされないような人たちだったのです。

そんな彼らがダビデを慕って一つのグループとなりました。

荒野で辛い時をともにし、いくども試練を乗り越えて行くうちに、

彼らは神様によって鍛え上げられ、勇士と成長しました。

私たちもイエス様によって呼ばれて、教会に集う一人一人となりました。

背景も違うお互いが、御霊によって磨かれて、

イエス様の役立つ勇士として整えられていくのです。

神様は敵の襲来に怯えて、酒槽に隠れていたギデオンに、

「大勇士よ。主があなたとともにおられる。」と声をかけました。

恐れるだけの弱い私たちにも、同じように声をかけて下さるのです。

私たちは主にあって大勇士となるのです。  


Posted by パスター・レイ at 07:30Comments(0)バイブル

2013年07月26日

アンコントロール

「神、その道は完全。主のみことばは純粋。主はすべて彼に身を避ける者の盾。」
Ⅱサムエル22章31節。


28年前の御巣鷹山日航機墜落事故で、

破壊された機体の中から回収されたブラックボックスから、

機長と管制塔のやり取りが記録されています。

どんなに死力を尽くしても機体を浮上させることができない。

「アンコトロール、アンコトロール」。

機長の絶望的な叫びがやりきれなさを伝えています。

私たちも自分の人生において、いろんなことを思い描き、計画して、

幸福をめざして前進します。

しかし、自分の思い通りに行くことと言うのは人生のほんのわずかです。

そのほとんどは予想に反すること、思いもよらないことだらけ。

必死に状況を把握して、何とか支配しようとしますが、

どこからともなく吹き荒れる風によって、

私たちの大切に守ろうとしていたものは積み木崩しのように簡単に崩れてしまいます。

その時、私たちの心は叫びます。


「アンコトロール、アンコトロール」。


このような不条理な人生を前にして、私たちはどうしたら良いのでしょうか。

旧約の聖徒であるダビデほど苦難の多い人生を送った人はまれです。

彼は周りの人々に人生を翻弄され、かき回されました。

また晩年は自分の罪の結果、苦労を負わされることになります。

しかし、ダビデはそんな苦難の場面を前にして告白します。

「神様の道は完全だ」と疑いもなく言い切ります。

ダビデにはいつも頭が下がります。

どこまでも神様を信頼してやまない態度。

私たちの人生は自分が支配できません。

しかし、その代わりに舵取りして下さるお方がいるのです。

私たちも吹き荒れる人生の嵐の中で告白しましょう。

「神様の道は完全です。」アーメン。  


Posted by パスター・レイ at 08:41Comments(0)コラム

2013年07月05日

今日のバイボー(249)

「王はツァドクに言った。「神の箱を町に戻しなさい。
もし、私が主の恵みをいただくことができれば、
主は、私を連れ戻し、神の箱とその住まいとを見せてくださろう。
もし主が、『あなたはわたしの心にかなわない。』と言われるなら、
どうか、この私に主が良いと思われることをしてくださるように。」
Ⅱサムエル15章25、26節。


ダビデは息子アブシャロムのクーデターで王宮を出て行きました。

祭司が契約の箱を一緒に持って行こうとしたら、箱を戻すように命じました。

もし、神様が許されるのなら、自分はふたたび王となって戻って来れる。

しかし、そうでないなら、別の神の良いと思われる道があるのだと言っています。

どちらの結果となっても神様はご自身の良いみこころを

ダビデの人生に現すと彼は信じているのです。

ある大学受験を控える女の子が牧師に相談しました。

「私は志望校があるのですが、そこは神様のみこころの大学でしょうか?」

牧師は答えました。

「あなたが精一杯勉強して、受かるならそれはみこころです。

もし、受からなかったら他にもっと良い道があるのです。」

私たちはどうしても「この道が良い」、と言うのがあって、

神様にその道をかなえて欲しいと思っています。

しかし、私たち以上に幸いな道をご存知の主が私たちを導いておられます。

ベストを尽くした後は、結果を、

私たちの偉大な神に自分の人生を委ねよう。
  


Posted by パスター・レイ at 06:54Comments(0)バイブル

2013年07月03日

今日のバイボー(248)

「人が彼に近づいて、あいさつしようとすると、彼は手を差し伸べて、
その人を抱き、口づけをした。
アブシャロムは、さばきのために王のところに来るすべてのイスラエル人にこのようにした。こうしてアブシャロムはイスラエル人の心を盗んだ。」
Ⅱサムエル15章5、6節。


父ダビデに対して苦い根を持っているアブシャロムは、

全国から問題を上訴しにやって来た民に近寄って、

「ダビデは忙しいからあなたの話を聞くことはできない。

私が王ならできたのに」と彼らに同情しました。

アブシャロムにとって不満を抱く民と自分は重なって見えました。

ダビデはアブシャロムを2年も相手にしないで無視し続けていました。

ですから、民に対する同情は自分に対する哀れなのです。

こうやって自分と同じように問題や不満を持つ者をアブシャロムは引き寄せ

て、大きな勢力を作り、ダビデに対抗して、王宮から追い出してしまいます。

自分のやっている行為がどんなに正しく見えて、相手に問題があるとしても、

アブシャロムのように憎しみと怒りという苦い根によって動かされる行為は

良い実を結ぶことはできません。

それはアブシャロム自身と彼について行った人の最後を見ればわかります。

いつでも自分を突き動かす心の衝動は何なのか吟味しないといけません。

アブシャロムは人々の心を盗みましたが、神様を騙すことはできないのです。  


Posted by パスター・レイ at 07:13Comments(0)

2013年07月03日

今日のバイボー(247)

「アブシャロムは家来たちに言った。
『見よ。ヨアブの畑は私の畑のそばにあり、そこには大麦が植えてある。
行ってそれに火をつけよ。』アブシャロムの家来たちは畑に火をつけた。」
Ⅱサムエル14章30節。



せっかくヨアブの仲介でエルサレムに戻ることができたアブシャロムでしたが、

ダビデは彼と会うことなく二年経過していました。

心の底では息子を赦していなかったのです。

アブシャロムはどうにか父と関係を持ちたいために、

父の部下ヨアブの畑に火をつけます。

このような過激な行為は関係をもちたいためのものです。

暴走族は人の多い都会に現れます。

山の中で暴走する人はいません。

それは人に迷惑をかけることで、「かまってほしい」気持ちを表現しているのです。

万引きやその他の問題行動もみんな自分に関心を向けさせるための手段です。

大人げないではありますが、アブシャロムの必死のアピールも

ダビデの心には届きませんでした。

アブシャロムの心は屈折して、最後は恐ろしい反抗を繰り返し、悲劇的な死に至ります。

人は最初、関係を求めるためにあらゆる問題行動を取ります。

それが叶えられないとわかると、完全に心を閉ざして、破壊的人生に進みます。

そうなる前に時間を作って、関係を築くことに心を砕きましょう。  


Posted by パスター・レイ at 07:10Comments(0)バイブル

2013年06月07日

今日のバイボー(246)

「背信の女イスラエルは、姦通したというその理由で、
わたしが離婚状を渡してこれを追い出したのに、
裏切る女、妹のユダは恐れもせず、自分も行って、
淫行を行なったのをわたしは見た。」エレミヤ3章8節。


北イスラエルは「背信の女」で南ユダは「裏切る女」だと神様は言っています。

背信と裏切りは似ていますが違うのです。

背信は文字通り、「教会もういや、イエス様いらない」

と言って、背中を向けること。

裏切りは顔と顔を合わせていながら、

心ではその人のことを愛せず、他のものに心が向かっていることです。

ユダはイエス様に口づけして裏切りました。

またイエス様は宗教熱心なイスラエル人に

「この民は、口先ではわたしを敬うが、その心は、わたしから遠く離れている。」

と悲しまれました。

背信はわかりやすいのですが、裏切りは心の問題なので捉えどころがないのです。

教会生活をしながら、神様を礼拝しながら、

実は裏切る女になっていることもありえるからです。

背信と裏切り、どちらも神様が悲しまれることです。

心を尽くし、思いを尽くし、力を尽くし、知性を尽くして神様に仕えて行きましょう。  


Posted by パスター・レイ at 06:46Comments(0)バイブル

2013年06月06日

今日のバイボー(245)

「あなたがた、この時代の人々よ。主のことばに心せよ。
わたしはイスラエルにとって、荒野であったのか。
あるいは暗黒の地であったのか。どうしてわたしの民は、
『私たちはさまよい出て、もうあなたのところには帰りません。』
と言うのか。」エレミヤ2章31節。

イスラエルに対して片思いの神様が心を痛めています。

イスラエルは神様とともに歩むことが嫌で、偶像に走りました。

「教会生活は嫌なことばかりで、何もいいことはありませんでした。」

そう言って出て行った人がおりました。

私たちが知らなければならないのは、

奴隷であったイスラエルが出エジプトして最初に向かうのは荒野です。

そこに40年置かれたのです。

なぜなら、エジプトでの生活が長くて、罪の束縛があるから、

すぐカナンに入れたら倒れてしまうからです。

約束の地カナンに入れるために、神様は訓練したのです。

麻薬患者が麻薬から抜け出るために、苦しみますね。

そのように私たちは取り扱われないと、

本当の自由、神様が与える幸せを享受できないのです。

神様は私たちを訓練するために、問題を与えて葛藤させて、

罪から解放させようとしているのです。

そのことを理解できる人にならなければいけません。

私たちはキリストの花嫁になったのですから、

まな板の鯉になったつもりで、

自分を主イエスに委ねて行く必要があります。  続きを読む


Posted by パスター・レイ at 07:07Comments(0)バイブル

2013年06月04日

今日のバイボー(244)

「主はこう仰せられる。「あなたがたの先祖は、わたしにどんな不正を見つけて、
わたしから遠く離れ、むなしいものに従って行って、むなしいものとなったのか。」
エレミヤ2章5節。



弱いイスラエルをいつでも助け、愛して下さった主なる神。

その完全な愛に包まれていたにもかかわらず、

イスラエルは神を捨てて、偶像に走りました。

人間は真実なものより、歪んだ情愛に惹きつけられます。

マリリン・モンローの墓に毎日のように、薔薇の花を飾る人がいました。

ジョー・ディマージオという野球のスター選手です。

彼はマリリンの元夫です。

離婚した後も再婚をせず、ずっとマリリンだけを愛し続けた人です。

そんなに愛しているのになぜ別れなければならなかったのでしょうか?

マリリンと結婚したジョーは深く彼女を愛し、大切にしたのです。

しかし、愛せば愛するほど、マリリンの心はジョーから離れて行きました。

彼女は多くの男性のセックスシンボルとなることの方が興奮して、

生きている実感があるのでした。

ある日、ジョーは完成したばかりのマリリンの映画を見ました。

彼女がマンホールから吹き上げる風でスカートを押さえているシーンがありました。

映画館で男性たちが鼻の下を伸ばして見ています。

そのシーンを見たジョーはショックで家を出て行きました。

その後のマリリンの悲劇はご存知だと思います。

聖い命の水を飲むより、濁った泥水を飲みたがる私たち。

これほどひどい仕打ちを受けても、神はイスラエルをあきらめずに、

最後は救い出すと約束されているのです。

この神の片思いの痛みを理解しているでしょうか。  


Posted by パスター・レイ at 06:56Comments(0)バイブル

2013年06月02日

わかる人にはわかる

世界の報道において、イスラエルはパレスチナ人をいじめて苦しめる

ひどい国家だと連日叩かれています。

最近、イスラエルのテレビ番組で、歌のコンテストがありました。

決勝でイスラエル人とパレスチナ人の二人が競い合って、

パレスチナ人の女性が優勝しました。

審査員はほとんどイスラエル人です。

観客のイスラエル人は優勝したパレスチナ人女性に惜しみない拍手を送りました。


パレスチナ人が経営する病院にイスラエル人が担ぎ込まれたら、治療しません。

運が悪ければその人は袋叩きにされます。

イスラエル人の病院ではそんなことはありません。

パレスチナ人がやって来ても分け隔てなく治療します。

子供を銃撃戦の先頭に立たせるパレスチナの軍隊と、

民間に危害が加わらないように細心の注意を払うイスラエル兵士。

世界がどんなにイスラエルを中傷しても、

どちらの国が民主国家で、良心的な国民なのか、

その内実を見ればあきらかです。

周囲からどんな噂や中傷があったとしても、その人の内実を見て判断してください。

言い訳しない、人の意見に耳を貸す、いつも笑顔が絶えない、

どんな状況でも神を信じて、喜んでいる。

たとえ多くの人が、その人を悪く評価しようが、

そういう人の心に何が宿っているのかは明確です。

わかる人にはわかるのです。

そして、まことの神は誰よりもそれをご存知です。

その人に隠れたところで報いて下さるのです。

ですから、自分で自分を証明する必要などないのです。  


Posted by パスター・レイ at 08:56Comments(0)コラム

2013年05月16日

今日のバイボー(243)

「それで、イスラエルはミデヤン人のために非常に弱くなっていった。
すると、イスラエル人は主に叫び求めた。」士師記6章6節。


士師記を読むと、一つのサイクルがあります。

まず神様の祝福があって、イスラエルは繁栄する。

それで、心が神様から離れて、悪を行う。

その時、敵が責めて来て苦しめられます。

すると、神様に助けを求めます。

その叫びを聞いた神様はイスラエルを救い出します。

士師記ではこのパターンをずっと繰り返します。


絵本に「大きな木」と言う村上春樹さんが翻訳した物語があります。

一人の男の子と大きな一本の木があって、

男の子は木の下でいつも遊んでいます。

男の子が成長して行く中、彼に悩みがあると、

木は自分の枝を切って、それをお金に替えて問題を解決するように勧めます。

そのように男の子が困るたびに枝を切り取って与えます。

木はそのように身を削っていきます。

ただ、一方的に与えるだけです。

それでも男の子を助けることができて満足します。

長い年月が過ぎて、あの大きな木は最後は切り株だけになっています。

そこに年老いた男の子が戻って来て、腰掛けます。

木と男の子はそれからはずっと一緒にいました。


ずっとあなたを支え、あなたに与え、

ずっと助け続けるお方がいることを忘れないで。  


Posted by パスター・レイ at 07:02Comments(0)バイブル

2013年05月10日

今日のバイボー(243)

「そのように、夫も自分の妻を自分のからだのように愛さなければなりません。
自分の妻を愛する者は自分を愛しているのです。
だれも自分の身を憎んだ者はいません。
かえって、これを養い育てます。
それはキリストが教会をそうされたのと同じです。」エペソ5章28、29節。


教会の中で時々、「自分を愛する」ことを教える人がいます。

しかし、そのような必要はいっさいありません。

なぜなら、自分を憎んだ人は一人も実在しないからです。

みんな自分を愛しています。

自分が嫌いと言う人は本当は大好きで、自分にこだわっている証拠なのです。

私たちはうっかりご飯食べるのを忘れたと言うことはあまりありません。

寒い日には上着を着込んで、体を寒さから守ります。

どこか体に傷を負ったなら、しっかり手当します。

そのような自分の体に関心を払うのと同じぐらい、

妻に関心を払えと言う事ですね。

基準は自分を愛するのと同じぐらい。

これが難しい、いや、不可能です。

だから、神の助けが必要です。  


Posted by パスター・レイ at 06:59Comments(0)バイブル

2013年04月30日

今日のバイボー(242)

「どうか父が、その栄光の豊かさに従い、御霊により、力をもって、
あなたがたの内なる人を強くしてくださいますように。」エペソ3章16節。


私たちの信仰の源である内なる人は、どうやって強化されるのでしょうか?

パウロによると、それは「栄光の豊かさに従い」です。

この世の成功とか、経験で成長するのではなく、

エペソの手紙でパウロが教えている、

見えない霊的な祝福に目が開かれた時に強くなるのです。

私たちの前に二つの世界が存在します。

サタンが働いているこの世と、神の支配する神の国です。

マトリックスと言う映画を見ればわかりますが、

バーチャルであっても、その人がそのバーチャルを受け入れたら、

それが現実になります。

人はその人が認知する世界がリアリティを持つようになります。

ほとんどの人は殺伐としたこの世にリアリティを感じて生きています。

オタクと言う人たちは、ファンタジーの世界にずっと生きることを望む人たちです。

そして、内なる人が強くなった人は、

神の国がこの世よりもリアリティを持つようになった人たちのことです。

聖歌467番は、内なる人が強くなった人です。

「悲しみ尽きざる浮き世にありても、日々、主と歩めば、御国のここちす♩♫」

この世に生きていても、この人は御国に生きているのです。

あなたは何にリアリティを感じて生きていますか。  


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2013年04月22日

今日のバイボー(241)

「神は、ただみこころのままに、私たちをイエス・キリストによって
ご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられたのです。」
エペソ1章5節。


私たちの人生は自分の自由意志で運命を切り開くことが困難です。

私たちの環境を見ると、ある定めがあって、

その定めに従って生きていることに気づきます。

私は日本人で、沖縄に生まれました。

物心がついた時には決められた両親、兄弟がいて、容姿も決まっていて、

生まれながらの才能も決まっています。

努力で変えられることはわずかしかないのです。

もし、変えられると言うなら、

私はフランス人になりたいし、小栗旬のような顔になりたいです(笑)。

しかし、それは無理です。

ロマン・ローランという人は

「人は幸せになるために生きているのではない。

自分の運命を全うするために生きているのです。」

と言っています。

私たちは自分の人生に革命を起こすのではなく、

与えられた賜物でベストを尽くして、与えられた人々を愛して、

その中で神に仕えて行く。

そして、人生を終えるのです。

さらにもっと重大な定めが私たちにはあります。

それは、クリスチャンは神の子であり、

最後は罪がなくなり、聖くなり、天に入ると言うこと。

そこに最良の幸福が待っていると言うこと。

これが定めです。

私たちの人生が地上で幸せになるために生きるなら、

それは辛い結果になる場合があります。

それぞれ、定めによって左右されるからです。

良いものを受ける人もいますが、そうでない人もいます。

私たちは地上ではなく、定められた天の霊的祝福を希望に生きる時、

幸いな毎日を送ることができます。  


Posted by パスター・レイ at 08:12Comments(0)バイブル