2012年01月27日
今日のバイボー(102)
「また言われた。『安息日は人間のために設け られたのです。
人間が安息日のために造られたのではありません。
人の子は安息日にも主です。』」マルコ2:27、28。
昔,イスラエル人は奴隷としてこき使われました。
来る日も来る日も朝から晩まで働き通しで
まったく体を休めることがかないませんでした。
疲れているのに休むとエジプト人のムチ打たれたので、
働きずくめだったのです。
主なる神はそんな彼らを解放して、安息日を与えました。
週に一度は体を完全に休ますように。
安息日はイスラエル人が人間らしく生きるために造られた、
人間のためのものです。
私たちにとって安息は何でしょうか?
ダビデは主の下で憩うと言いました。
私たちは霊的な存在なので、神様に近づく時に魂が安らぎます。
信仰生活が疲れる場合、
そこには義務感、お務め意識があるからではないでしょうか。
幼子が父の懐に入って、ぐっすり休むように、
私たちも主にあって安息を得たいものです。
人間が安息日のために造られたのではありません。
人の子は安息日にも主です。』」マルコ2:27、28。
昔,イスラエル人は奴隷としてこき使われました。
来る日も来る日も朝から晩まで働き通しで
まったく体を休めることがかないませんでした。
疲れているのに休むとエジプト人のムチ打たれたので、
働きずくめだったのです。
主なる神はそんな彼らを解放して、安息日を与えました。
週に一度は体を完全に休ますように。
安息日はイスラエル人が人間らしく生きるために造られた、
人間のためのものです。
私たちにとって安息は何でしょうか?
ダビデは主の下で憩うと言いました。
私たちは霊的な存在なので、神様に近づく時に魂が安らぎます。
信仰生活が疲れる場合、
そこには義務感、お務め意識があるからではないでしょうか。
幼子が父の懐に入って、ぐっすり休むように、
私たちも主にあって安息を得たいものです。
2012年01月26日
今日のバイボー(101)
「また、だれも新しいぶどう酒を古い皮袋に 入れるようなことはしません。
そんなこと をすれば、ぶどう酒は皮袋を張り裂き、
ぶ どう酒も皮袋もだめになってしまいます。
新しいぶどう酒は新しい皮袋に入れるのです。」マルコ2:22。
ある主婦が鳥の丸焼きを料理していました。
鳥の前と後ろをカットしてその肉を上に乗せてからオーブンに入れました。
それを見ていた息子が、「お母さん、なぜ、そんなことをするの?」
お母さんはちょっと考えてから、
「それはお祖母ちゃんがいつもそうしていたからよー」と言いました。
そばで聞いていたお祖母ちゃんはあきれて言いました。
「昔使っていたオーブンが小さかったので、
両端を切らないと鳥が入らなかったから私はそうしていたのよ。」
私たちは何でもみんなやっているから、昔からやっているからと、
その意味もよく理解しないで、習慣にしていることがあります。
神様に仕えることは習慣やマンネリではよくないです。
いつも新鮮で刷新された心で自分をささげる必要があります。
そんなこと をすれば、ぶどう酒は皮袋を張り裂き、
ぶ どう酒も皮袋もだめになってしまいます。
新しいぶどう酒は新しい皮袋に入れるのです。」マルコ2:22。
ある主婦が鳥の丸焼きを料理していました。
鳥の前と後ろをカットしてその肉を上に乗せてからオーブンに入れました。
それを見ていた息子が、「お母さん、なぜ、そんなことをするの?」
お母さんはちょっと考えてから、
「それはお祖母ちゃんがいつもそうしていたからよー」と言いました。
そばで聞いていたお祖母ちゃんはあきれて言いました。
「昔使っていたオーブンが小さかったので、
両端を切らないと鳥が入らなかったから私はそうしていたのよ。」
私たちは何でもみんなやっているから、昔からやっているからと、
その意味もよく理解しないで、習慣にしていることがあります。
神様に仕えることは習慣やマンネリではよくないです。
いつも新鮮で刷新された心で自分をささげる必要があります。
2012年01月24日
今日のバイボー(100)
「群衆のためにイエスに近づくことができな かったので、
その人々はイエスのおられる あたりの屋根をはがし、穴をあけて、
中風の人を寝かせたままその床をつり降ろした。」マルコ2:4。
中風の人をいやしたい一心で、友人たちは、
屋根をはがして、穴を明けるという非常識な行動に出ました。
目の前にあるどんな障害も乗り越えて、
イエス様の御前に彼を運んだのです。
「彼らの信仰を見て」とあります。
信仰は目に見えないはずなのに、
何によって、彼らの信仰が確認できたのでしょう。
彼らの屋根に穴を開けるという大胆な行動によって信仰が認められました。
確かに信仰は行いによらないのですが、
しかし、本物の信仰には行いがともなうのですね。
私たちは誰かのためにひたむきな行動をする人を見た時、
「あの人、○○を愛しているんだね~」
と、その行動でわかるんです。
信仰の常識は時には世の中の非常識になるのです。
その人々はイエスのおられる あたりの屋根をはがし、穴をあけて、
中風の人を寝かせたままその床をつり降ろした。」マルコ2:4。
中風の人をいやしたい一心で、友人たちは、
屋根をはがして、穴を明けるという非常識な行動に出ました。
目の前にあるどんな障害も乗り越えて、
イエス様の御前に彼を運んだのです。
「彼らの信仰を見て」とあります。
信仰は目に見えないはずなのに、
何によって、彼らの信仰が確認できたのでしょう。
彼らの屋根に穴を開けるという大胆な行動によって信仰が認められました。
確かに信仰は行いによらないのですが、
しかし、本物の信仰には行いがともなうのですね。
私たちは誰かのためにひたむきな行動をする人を見た時、
「あの人、○○を愛しているんだね~」
と、その行動でわかるんです。
信仰の常識は時には世の中の非常識になるのです。
2012年01月23日
今日のバイボー(99)
「さて、ツァラアトに冒された人がイエスの みもとにお願いに来て
、ひざまずいて言っ た。
『お心一つで、私をきよくしていただけます。』」マルコ1:40。
中国に行った時、地元の人が言うには、
偉い人の心一つで物事が通るか決まると言っていました。
交通違反をしても、警察の偉い人に友達がいれば、
なかったことにしてくれるそうです(笑)。
ツァラアトは進行性の皮膚病でそのままでは悪くなるばかりです。
彼はイエス様に自分の病気をいやす権威があることを認めまています。
そして、イエス様に治す気持ちがあるのかを伺っています。
イエス様は神の子です。
私たちの人生を良きものにすることができる全能の神です。
しかし、問題はイエス様自身が私たちのことをそうしたいと
願っているかどうかです。
幸いなことに、「私の心だきよくなりなさい」
と言われてツァラアトをいやしてあげました。
イエス様の願いはツァラアトがいやされて、
彼が幸いな人生を送ることです。
私たちに対しても、イエス様は私たちが罪の力から解放されて、
自由になることを願っています。
ですから、私たちはイエス様に私たちの人生が罪の力に支配されてしまわないように、
その影響が進行しないように求めるのです。
もう一度言いますが、イエス様の願いはあなたがきよくなり、幸せになることです。
あなたがそう求めるならそうなります。
なぜならイエス様とあなたの心が一致しているからです。
、ひざまずいて言っ た。
『お心一つで、私をきよくしていただけます。』」マルコ1:40。
中国に行った時、地元の人が言うには、
偉い人の心一つで物事が通るか決まると言っていました。
交通違反をしても、警察の偉い人に友達がいれば、
なかったことにしてくれるそうです(笑)。
ツァラアトは進行性の皮膚病でそのままでは悪くなるばかりです。
彼はイエス様に自分の病気をいやす権威があることを認めまています。
そして、イエス様に治す気持ちがあるのかを伺っています。
イエス様は神の子です。
私たちの人生を良きものにすることができる全能の神です。
しかし、問題はイエス様自身が私たちのことをそうしたいと
願っているかどうかです。
幸いなことに、「私の心だきよくなりなさい」
と言われてツァラアトをいやしてあげました。
イエス様の願いはツァラアトがいやされて、
彼が幸いな人生を送ることです。
私たちに対しても、イエス様は私たちが罪の力から解放されて、
自由になることを願っています。
ですから、私たちはイエス様に私たちの人生が罪の力に支配されてしまわないように、
その影響が進行しないように求めるのです。
もう一度言いますが、イエス様の願いはあなたがきよくなり、幸せになることです。
あなたがそう求めるならそうなります。
なぜならイエス様とあなたの心が一致しているからです。
2012年01月20日
今日のバイボー(98)
「人々は、その教えに驚いた。
それはイエスが、 律法学者たちのようにではなく、
権威ある者のように教えられたからである。」マルコ1:22。
ユダヤ教の教師であるラビは、人を教える時、
過去の偉大なラビの文献を引用して、
「○○先生はこう言っています」と、
そのように教えていました。
つまり、自分でみことばをそしゃくして、
自ら経験した内容ではなく、他からの借り物でした。
ですから、聞く人たちには説得力がなく、
心に入らなかったわけです。
子育てをする時に、教育書を読んで、
そこに書いてある言葉をただ並べても意味がないでしょう。
私たちがみことばに真剣に取り組み、
みことばと格闘した結果,
身に付いたみことばなら、
それは語るその人からいのちが流れ、
聞く人にいのちが吹き込まれます。
人を生かす言葉を語りたいなら、
みことばに真剣に取り組む必要があります。
それはイエスが、 律法学者たちのようにではなく、
権威ある者のように教えられたからである。」マルコ1:22。
ユダヤ教の教師であるラビは、人を教える時、
過去の偉大なラビの文献を引用して、
「○○先生はこう言っています」と、
そのように教えていました。
つまり、自分でみことばをそしゃくして、
自ら経験した内容ではなく、他からの借り物でした。
ですから、聞く人たちには説得力がなく、
心に入らなかったわけです。
子育てをする時に、教育書を読んで、
そこに書いてある言葉をただ並べても意味がないでしょう。
私たちがみことばに真剣に取り組み、
みことばと格闘した結果,
身に付いたみことばなら、
それは語るその人からいのちが流れ、
聞く人にいのちが吹き込まれます。
人を生かす言葉を語りたいなら、
みことばに真剣に取り組む必要があります。
2012年01月18日
今日のバイボー(97)
「私はあなたがたに水でバプテスマを授けましたが、その方は、
あなたがたに聖霊のバプテスマをお授けになります。」マルコ1:8。
バプテスマは「浸す」と言う意味で、
その人を完全に別な存在に変えるという目的があります。
白菜を唐辛子味噌に浸けると、キムチという別の食べ物になります。
キュウリをワインビネガーに浸けると、ピクルスになります。
まったく変わった食べ物、味になりますね。
あなたもイエス様を信じたなら、
信じる前とはまったく別の人間、
新しい性質を持つようになりました。
「いや~前と何も変わってないんですけどー」
「あいかわらず問題がありますよー」
それは、死ぬべき体に宿る過去の記憶と
習慣による条件反応があるからです。
あなたは神に受け入れられる神の子として生まれ変わっています。
永遠の神の喜びとして生きるいのちがあるのです。
いずれ朽ち果てる古い性質に目をとめないで、
神が自分に与えて下さった美しい性質に目をとめるようにしましょう。
あなたがたに聖霊のバプテスマをお授けになります。」マルコ1:8。
バプテスマは「浸す」と言う意味で、
その人を完全に別な存在に変えるという目的があります。
白菜を唐辛子味噌に浸けると、キムチという別の食べ物になります。
キュウリをワインビネガーに浸けると、ピクルスになります。
まったく変わった食べ物、味になりますね。
あなたもイエス様を信じたなら、
信じる前とはまったく別の人間、
新しい性質を持つようになりました。
「いや~前と何も変わってないんですけどー」
「あいかわらず問題がありますよー」
それは、死ぬべき体に宿る過去の記憶と
習慣による条件反応があるからです。
あなたは神に受け入れられる神の子として生まれ変わっています。
永遠の神の喜びとして生きるいのちがあるのです。
いずれ朽ち果てる古い性質に目をとめないで、
神が自分に与えて下さった美しい性質に目をとめるようにしましょう。
2012年01月17日
今日のバイボー(96)
「サムエルが全焼のいけにえをささげていた とき、
ペリシテ人がイスラエルと戦おうと して近づいて来たが、
主はその日、ペリシ テ人の上に、大きな雷鳴をとどろかせ、
彼 らをかき乱したので、
彼らはイスラエル人に打ち負かされた。」Ⅰサムエル7:10。
イスラエル人の心にリバイバルが起こって、主を求め始めました。
かつては契約の箱を先頭に戦っていても、心は主から離れていたので、
ペリシテ人に勝てませんでした。
しかし、今は契約の箱はありませんが、
主に心が向いているので、
主は彼らの味方となって、
ペリシテ人を打って下さいました。
私たちは習慣的に形だけの信仰生活を送っても、
私たちの心が神様に向けられていなければ、
神様のいのちは流れて来ません。
表面的な行いだけではなく、
心のともなう信仰生活を送ろう。
ペリシテ人がイスラエルと戦おうと して近づいて来たが、
主はその日、ペリシ テ人の上に、大きな雷鳴をとどろかせ、
彼 らをかき乱したので、
彼らはイスラエル人に打ち負かされた。」Ⅰサムエル7:10。
イスラエル人の心にリバイバルが起こって、主を求め始めました。
かつては契約の箱を先頭に戦っていても、心は主から離れていたので、
ペリシテ人に勝てませんでした。
しかし、今は契約の箱はありませんが、
主に心が向いているので、
主は彼らの味方となって、
ペリシテ人を打って下さいました。
私たちは習慣的に形だけの信仰生活を送っても、
私たちの心が神様に向けられていなければ、
神様のいのちは流れて来ません。
表面的な行いだけではなく、
心のともなう信仰生活を送ろう。
2012年01月16日
今日のバイボー(95)
「その箱がキルヤテ・エアリムにとどまった日から
長い年月がたって、二十年になった。
イスラエルの全家は主を慕い求めていた。」Ⅰサムエル7:2。
イスラエル人の礼拝の中心であった契約の箱が、
ペリシテ人に奪われ、やがて返還されました。
しかし、イスラエル人は契約の箱を辺ぴな所に
置いたままにしておきました。
彼らは神を礼拝することをずっと忘れて、
日常生活をしていたのです。
しかし、20年もの歳月が過ぎた頃、
イスラエル人に神を求める飢え渇きが起こります。
信仰のリバイバルです。
子供は親が口うるさく、あーしなさい、こうしなさい、
と言えば言うほど、意欲を失います。
やかましいので、その場は言う事を聞くかもしれません。
しかし、それは自発的な気持ちからではないので、自立心は育ちません。
信仰もそうです。
外的な強制力によって、熱心になっても
それは自発的な心から出た信仰ではないので、
本当は成長していないのです。
神様は20年もイスラエル人が自ら礼拝したいと願うまで、
20年も待ちました。
神様の求める献身は、
強いられるものではなく、
自発的な献身です。
長い年月がたって、二十年になった。
イスラエルの全家は主を慕い求めていた。」Ⅰサムエル7:2。
イスラエル人の礼拝の中心であった契約の箱が、
ペリシテ人に奪われ、やがて返還されました。
しかし、イスラエル人は契約の箱を辺ぴな所に
置いたままにしておきました。
彼らは神を礼拝することをずっと忘れて、
日常生活をしていたのです。
しかし、20年もの歳月が過ぎた頃、
イスラエル人に神を求める飢え渇きが起こります。
信仰のリバイバルです。
子供は親が口うるさく、あーしなさい、こうしなさい、
と言えば言うほど、意欲を失います。
やかましいので、その場は言う事を聞くかもしれません。
しかし、それは自発的な気持ちからではないので、自立心は育ちません。
信仰もそうです。
外的な強制力によって、熱心になっても
それは自発的な心から出た信仰ではないので、
本当は成長していないのです。
神様は20年もイスラエル人が自ら礼拝したいと願うまで、
20年も待ちました。
神様の求める献身は、
強いられるものではなく、
自発的な献身です。
2012年01月13日
今日のバイボー(94)
「ペリシテ人は祭司たちと占い師たちを呼び寄せて言った。
『主の箱を、どうしたらよいだろう。どのようにして、
それをもとの所に送り返せるか、教えてもらいたい。』」Ⅰサムエル6:2。
ペリシテ人にとって、まことの神は災いで、恐ろしいものでした。
何とか遠ざけて災いを受けないようにすることが彼らの考えることでした。
プロ野球のある投手が、トレードでチームを移る事になりました。
その移籍するチームに、彼がいつも打たれていたバッターがいました。
彼はインタビューで、「今までは○○選手は敵でずいぶんやられていましたが、
これからは味方になりました。これほど力強い人はいないっす。」
私たちは以前は神様に敵対して、裁きの対象でした。
しかし、今は私たちの味方になって、
私たちを助ける頼もしいお方に変わったのです。
「もし敵であった私たちが、御子の死によって神と和解させられたのなら、
和解させられた私たちが、彼のいのちによって
救いにあずかるのは、なおさらのことです。」ローマ5:10。
『主の箱を、どうしたらよいだろう。どのようにして、
それをもとの所に送り返せるか、教えてもらいたい。』」Ⅰサムエル6:2。
ペリシテ人にとって、まことの神は災いで、恐ろしいものでした。
何とか遠ざけて災いを受けないようにすることが彼らの考えることでした。
プロ野球のある投手が、トレードでチームを移る事になりました。
その移籍するチームに、彼がいつも打たれていたバッターがいました。
彼はインタビューで、「今までは○○選手は敵でずいぶんやられていましたが、
これからは味方になりました。これほど力強い人はいないっす。」
私たちは以前は神様に敵対して、裁きの対象でした。
しかし、今は私たちの味方になって、
私たちを助ける頼もしいお方に変わったのです。
「もし敵であった私たちが、御子の死によって神と和解させられたのなら、
和解させられた私たちが、彼のいのちによって
救いにあずかるのは、なおさらのことです。」ローマ5:10。
2012年01月12日
今日のバイボー(93)
「それからペリシテ人は神の箱を取って、それをダゴンの宮に運び、
ダゴンのかたわらに安置した。」Ⅰサムエル5:2。
イスラエルとの戦争で契約の箱を奪ったペリシテ人は、
自分たちが拝んでいるダゴンの宮に契約の箱を一緒に安置しました。
自分たちが普段、拝んでいるダゴンに、イスラエルの神を付け加えるなら、
さらにご利益があると思ったのでしょう。
ところが、まことの神の臨在である契約の箱が
ダゴンの偶の頭を胴体から切り離してしまいました。
さらに、ペリシテ人は打たれて伝染病になりました。
何と恐ろしく強い神でしょう。
私たちは心に偶像(自分の欲など)を持ったまま、
まことの神に仕えようとしたら、
私たちの心に神は剣を持ち込まれて、
私たちが大切にしていて、手放さなかったものをまっ二つにしてしまいます。
なぜなら、神は唯一で、心に王座は一つしかないからです。
誰も二人の主人に仕えることはできません。
神は私たちの罪と戦われます。
それは私たちが時には苦しむような出来事かもしれません。
しかし、神は罪を打ち砕いて、私たちの心にまことの唯一の王として、君臨します。
その時、私たちに平安が支配します。
主なるイエスを心に迎えた方、
覚悟が必要です。
ダゴンのかたわらに安置した。」Ⅰサムエル5:2。
イスラエルとの戦争で契約の箱を奪ったペリシテ人は、
自分たちが拝んでいるダゴンの宮に契約の箱を一緒に安置しました。
自分たちが普段、拝んでいるダゴンに、イスラエルの神を付け加えるなら、
さらにご利益があると思ったのでしょう。
ところが、まことの神の臨在である契約の箱が
ダゴンの偶の頭を胴体から切り離してしまいました。
さらに、ペリシテ人は打たれて伝染病になりました。
何と恐ろしく強い神でしょう。
私たちは心に偶像(自分の欲など)を持ったまま、
まことの神に仕えようとしたら、
私たちの心に神は剣を持ち込まれて、
私たちが大切にしていて、手放さなかったものをまっ二つにしてしまいます。
なぜなら、神は唯一で、心に王座は一つしかないからです。
誰も二人の主人に仕えることはできません。
神は私たちの罪と戦われます。
それは私たちが時には苦しむような出来事かもしれません。
しかし、神は罪を打ち砕いて、私たちの心にまことの唯一の王として、君臨します。
その時、私たちに平安が支配します。
主なるイエスを心に迎えた方、
覚悟が必要です。
2012年01月11日
今日のバイボー(92)
「彼女は、『栄光がイスラエルから去った。」と言って、
その子をイ・カボデと名づけた。
これは神の箱が奪われたこと、
それに、しゅうとと、夫のことをさしたのである。』」Ⅰサムエル4:21。
イスラエルは神の臨在する契約の箱を顧みず、崇める事をしなかったため、
神様はイスラエルからご自分の栄光を去らせてしまいました。
育児の問題でネグレクトがあります。
日本では育児放棄の意味になっていますが、
本来の意味は「無視すること」です。
子供が思い通りにならないので、罰の意味で母親は子供を無視します。
話しかけられても返事をしなかったりします。
ネグレクトを経験した子供は大きなショックを受けるそうです。
ある専門家によれば、体罰よりもこのネグレクト(無視)された方が
心の傷は深いと言っていました。
いじめでも無視が一番辛いかもしれません。
無視とは相手がそばにいるのに、いないかのように振る舞う事。
聖霊は「ともにいる助け主」と紹介されました。
いつもあなたとともにいるのです。
もし、その存在をいないかのように扱うなら、
どれだけひどい仕打ちをしていることになるでしょう。
逆に、聖霊を認め、いつも聖霊とともに歩むなら、
聖霊は喜んでご自身を現して下さいます。
聖霊は「決してあなたを見捨てず、あなたを捨てない」と言っていますから、
離れることはありません。
だからこそ、聖霊を無視しないようにしましょう。
その子をイ・カボデと名づけた。
これは神の箱が奪われたこと、
それに、しゅうとと、夫のことをさしたのである。』」Ⅰサムエル4:21。
イスラエルは神の臨在する契約の箱を顧みず、崇める事をしなかったため、
神様はイスラエルからご自分の栄光を去らせてしまいました。
育児の問題でネグレクトがあります。
日本では育児放棄の意味になっていますが、
本来の意味は「無視すること」です。
子供が思い通りにならないので、罰の意味で母親は子供を無視します。
話しかけられても返事をしなかったりします。
ネグレクトを経験した子供は大きなショックを受けるそうです。
ある専門家によれば、体罰よりもこのネグレクト(無視)された方が
心の傷は深いと言っていました。
いじめでも無視が一番辛いかもしれません。
無視とは相手がそばにいるのに、いないかのように振る舞う事。
聖霊は「ともにいる助け主」と紹介されました。
いつもあなたとともにいるのです。
もし、その存在をいないかのように扱うなら、
どれだけひどい仕打ちをしていることになるでしょう。
逆に、聖霊を認め、いつも聖霊とともに歩むなら、
聖霊は喜んでご自身を現して下さいます。
聖霊は「決してあなたを見捨てず、あなたを捨てない」と言っていますから、
離れることはありません。
だからこそ、聖霊を無視しないようにしましょう。
2012年01月10日
今日のバイボー(91)
「ペリシテ人は、その歓声を聞いて、
「ヘブル人の陣営の、あの大歓声は何だろう。」と言った。
そして、主の箱が陣営に着いたと知ったとき、
ペリシテ人は、「神が陣営に来た。」と言って、恐れた。」Ⅰサムエル4:6、7。
ペリシテ人はイスラエルが担ぐ契約の箱を見てビビりました。
エジプトから救い出した力ある神様のことを知っていたのです。
それで全力で応戦しようとしています。
ニューヨークで悪魔崇拝をしているグループのリーダーがクリスチャンになりました。
彼の証言によると、クリスチャンが近寄ると、非常に恐れたと言います。
悪魔はクリスチャンを恐れています。
その攻撃性は恐れのある証拠です。
自分が負けないように、全力で攻撃して来ます。
しかし、神が戦うのであれば、悪魔は敵ではありません。
私たちは圧倒的勝利者です。
それなのにイスラエルはペリシテ人に負けました。
契約の箱はありましたが、神様がそこに臨在していなかったのです。
神様はイスラエルを離れていたのです。
神があなたとともにいるなら、どんな戦いも勝利です。
しかし、あなた一人と悪魔なら、悪魔に勝てるはずはありません。
あなたの生活に神を迎え、神との交わりがあるでしょうか。
「私はバプテスマを受けた。教会にも行っている」
その肩書きで戦うのではありません。
今、神とのつながりがあるのか?
それがすべてです。
「ヘブル人の陣営の、あの大歓声は何だろう。」と言った。
そして、主の箱が陣営に着いたと知ったとき、
ペリシテ人は、「神が陣営に来た。」と言って、恐れた。」Ⅰサムエル4:6、7。
ペリシテ人はイスラエルが担ぐ契約の箱を見てビビりました。
エジプトから救い出した力ある神様のことを知っていたのです。
それで全力で応戦しようとしています。
ニューヨークで悪魔崇拝をしているグループのリーダーがクリスチャンになりました。
彼の証言によると、クリスチャンが近寄ると、非常に恐れたと言います。
悪魔はクリスチャンを恐れています。
その攻撃性は恐れのある証拠です。
自分が負けないように、全力で攻撃して来ます。
しかし、神が戦うのであれば、悪魔は敵ではありません。
私たちは圧倒的勝利者です。
それなのにイスラエルはペリシテ人に負けました。
契約の箱はありましたが、神様がそこに臨在していなかったのです。
神様はイスラエルを離れていたのです。
神があなたとともにいるなら、どんな戦いも勝利です。
しかし、あなた一人と悪魔なら、悪魔に勝てるはずはありません。
あなたの生活に神を迎え、神との交わりがあるでしょうか。
「私はバプテスマを受けた。教会にも行っている」
その肩書きで戦うのではありません。
今、神とのつながりがあるのか?
それがすべてです。
2012年01月06日
今日のバイボー(90)
「なぜ、あなたがたは、わたしが命じたわたしへのいけにえ、
わたしへのささげ物を、わたしの住む所で軽くあしらい、
またあなたは、わたしよりも自分の息子たちを重んじて、
わたしの民イスラエルのすべてのささげ物のうち
最上の部分で自分たちを肥やそうとするのか。」Ⅰサムエル2:29。
日本人と西洋人のそれぞれの家族写真を見ると、違いがあるそうです。
西洋人は夫婦が真ん中にいて、子供は両親の両端に立って写真を撮ります。
日本人はその逆で子供が真ん中にいて、夫婦が両端です。
この写真の撮り方から、何が中心で、一番にしている関係かわかりますね。
地上で私たちに与えられたものはみな、神様からの預かりものです。
それは物だけではなく、家族もそうです。
私たちはいつの間にかそれを忘れて、神様以上に尊ぶようになることがあります。
サムエルは息子たちを戒めましたが、口先だけで、彼らが神に逆らっていることを、
強く咎めることをしませんでした。それは神様を尊ぶよりも、
子供との関係を損なうことを恐れたからです。
その結果、大切にしたはずの息子たちを失うことになります。
本当の意味で家族を愛することとは何でしょうか。
家族の幸せのためには、イエス様を畏れて生きるようにさせることです。
そのためにたとえ対立があったり、自分が疎まれてもです。
イエス様よりも人間関係を大切にする人は本当は自分の平安、
安泰ために家族を利用しているのです。
イエス様を中心とした家族愛を形成しよう。
わたしへのささげ物を、わたしの住む所で軽くあしらい、
またあなたは、わたしよりも自分の息子たちを重んじて、
わたしの民イスラエルのすべてのささげ物のうち
最上の部分で自分たちを肥やそうとするのか。」Ⅰサムエル2:29。
日本人と西洋人のそれぞれの家族写真を見ると、違いがあるそうです。
西洋人は夫婦が真ん中にいて、子供は両親の両端に立って写真を撮ります。
日本人はその逆で子供が真ん中にいて、夫婦が両端です。
この写真の撮り方から、何が中心で、一番にしている関係かわかりますね。
地上で私たちに与えられたものはみな、神様からの預かりものです。
それは物だけではなく、家族もそうです。
私たちはいつの間にかそれを忘れて、神様以上に尊ぶようになることがあります。
サムエルは息子たちを戒めましたが、口先だけで、彼らが神に逆らっていることを、
強く咎めることをしませんでした。それは神様を尊ぶよりも、
子供との関係を損なうことを恐れたからです。
その結果、大切にしたはずの息子たちを失うことになります。
本当の意味で家族を愛することとは何でしょうか。
家族の幸せのためには、イエス様を畏れて生きるようにさせることです。
そのためにたとえ対立があったり、自分が疎まれてもです。
イエス様よりも人間関係を大切にする人は本当は自分の平安、
安泰ために家族を利用しているのです。
イエス様を中心とした家族愛を形成しよう。
2012年01月05日
今日のバイボー(89)
「人がもし、ほかの人に対して罪を犯すと、神がその仲裁をしてくださる。
だが、人が主に対して罪を犯したら、
だれが、その者のために仲裁に立とうか。・・」Ⅰサムエル2:25。
私たちが兄弟間で罪を犯すことがあります。
「怒った、冷たくした、意地悪いことをした」。
どれも良くないことですが、その罪を悔い、神の御前に出るなら、
イエス様の血潮で完全に赦されます。
しかし、十字架の御業を軽んじて、その十字架を仰ぐ事のない生活をするなら、
その人の罪を覆うものは他にはありません。
ずっと前にバプテスマを受けた青年がいました。
彼はいろいろ個人的な問題に悩んでいて、
いつの間にか罪深い生活に逃げてしまいました。
そして、教会に来なくなったのです。
教会の人が代わる代わる彼を尋ねて、イエス様に立ち返るように励ましました。
彼の答えは、「こんな罪を犯した自分は教会に行ってはいけない。」でした。
これは一見、自分の罪深さを自覚している態度ですが、十字架を仰がない罪です。
何かイエス様に赦せない罪があるかのような、福音を侮る態度です。
イエス様がペテロの足を洗うので、やめるようにペテロは言いました。
「もし、それをやめたら私とあなたは何の関係もない」、
と言われました。泥にまみれた足のように、
あなたの汚い心を洗ってもらおうとしないなら、
十字架はあなたに何の効力もありません。
私たちの信仰生活で十字架を侮ることだけはやめましょう。
だが、人が主に対して罪を犯したら、
だれが、その者のために仲裁に立とうか。・・」Ⅰサムエル2:25。
私たちが兄弟間で罪を犯すことがあります。
「怒った、冷たくした、意地悪いことをした」。
どれも良くないことですが、その罪を悔い、神の御前に出るなら、
イエス様の血潮で完全に赦されます。
しかし、十字架の御業を軽んじて、その十字架を仰ぐ事のない生活をするなら、
その人の罪を覆うものは他にはありません。
ずっと前にバプテスマを受けた青年がいました。
彼はいろいろ個人的な問題に悩んでいて、
いつの間にか罪深い生活に逃げてしまいました。
そして、教会に来なくなったのです。
教会の人が代わる代わる彼を尋ねて、イエス様に立ち返るように励ましました。
彼の答えは、「こんな罪を犯した自分は教会に行ってはいけない。」でした。
これは一見、自分の罪深さを自覚している態度ですが、十字架を仰がない罪です。
何かイエス様に赦せない罪があるかのような、福音を侮る態度です。
イエス様がペテロの足を洗うので、やめるようにペテロは言いました。
「もし、それをやめたら私とあなたは何の関係もない」、
と言われました。泥にまみれた足のように、
あなたの汚い心を洗ってもらおうとしないなら、
十字架はあなたに何の効力もありません。
私たちの信仰生活で十字架を侮ることだけはやめましょう。
2012年01月04日
今日のバイボー(88)
「さて、エリの息子たちは、よこしまな者で、主を知らず、
民にかかわる祭司の定めについてもそうであった。」Ⅰサムエル2:12、13a。
エリの息子たちはその頃、イスラエルの霊的状態を象徴するような
堕落した祭司たちでした。
何が原因かというと、彼らは「主を知らず」と言う事です。
主を知らずに仕えているのですから、当然、そうなってしまいます。
ある男性が仕事のことで深く落ち込んで、
公園で一人うなだれていました。
そこへ犬の散歩でやってきた紳士が彼を見て、
手に聖書を持っているので話しかけました。
紳士もクリスチャンでした。
この紳士は彼の仕事の悩みについてずっと真剣に耳を傾けました。
そして、最後にあなたのために祈ることを約束して、
ハグして帰ろうとしました。
すると、紳士が振り返って彼に尋ねました。
「ところであなたは主を知っていますか?」
そう質問した後、答えを待たずに、ニコッと笑って去って行きました。
主を知ること、
それは頭ではなく、
心の深いところで、
主がどれだけ偉大で、
恵みに満ちて、
私たちを愛しているのか、
私たちの人生にかかわってくださって、
良いもので満たして下さる方であること、
「そのことを知っていますか?」
それを紳士は聞いたんですね。
私たちも主を知らないことで、
霊的近視になってしまいます。
主を知らないことで、主ご自身よりも、
問題や自分を見つめてしまいます。
今年はもっともっと主を深く知る事、
それを目標にしたいですね。
民にかかわる祭司の定めについてもそうであった。」Ⅰサムエル2:12、13a。
エリの息子たちはその頃、イスラエルの霊的状態を象徴するような
堕落した祭司たちでした。
何が原因かというと、彼らは「主を知らず」と言う事です。
主を知らずに仕えているのですから、当然、そうなってしまいます。
ある男性が仕事のことで深く落ち込んで、
公園で一人うなだれていました。
そこへ犬の散歩でやってきた紳士が彼を見て、
手に聖書を持っているので話しかけました。
紳士もクリスチャンでした。
この紳士は彼の仕事の悩みについてずっと真剣に耳を傾けました。
そして、最後にあなたのために祈ることを約束して、
ハグして帰ろうとしました。
すると、紳士が振り返って彼に尋ねました。
「ところであなたは主を知っていますか?」
そう質問した後、答えを待たずに、ニコッと笑って去って行きました。
主を知ること、
それは頭ではなく、
心の深いところで、
主がどれだけ偉大で、
恵みに満ちて、
私たちを愛しているのか、
私たちの人生にかかわってくださって、
良いもので満たして下さる方であること、
「そのことを知っていますか?」
それを紳士は聞いたんですね。
私たちも主を知らないことで、
霊的近視になってしまいます。
主を知らないことで、主ご自身よりも、
問題や自分を見つめてしまいます。
今年はもっともっと主を深く知る事、
それを目標にしたいですね。
2012年01月02日
幻肢痛と暗愁

「人の子は、失われた人を捜して救うために来たのです。」ルカ19章10節
「幻肢痛(げんしつう)」という痛みがある。
事故や病気で腕や足を失った人が、
ないはずの腕、足に痛みを感じる現象です。
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2012年01月02日
大晦日の格闘技

大晦日の地上波から、総合格闘技がなくなってしまいましたが、
少しずつ、ネットでアップしてくれる人がいて、
いろいろ見てみましたが、
ヒョードル、石井戦はあまり見せ場もなく、
ヒョードルの圧勝という感じでした。
それでも石井選手はスリムになって、格闘家らしくかっこよくなっていました。
あと、2年ぐらい経験すれば、強くなるのではと思います。
一番、見所があったのは
コスプレ格闘家の長島☆自演乙と、
三日月蹴りの菊野選手。
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2012年01月01日
大晦日のボクシング

一時期の格闘技ブームが去って、
大晦日のテレビ中継でも総合格闘技が放送できなくなったのは、
とても残念ですけど、
wowowでUFCを見る事ができました。
かつてのように、総合格闘技は勢いがありませんが、
ボクシングは現在、8人も現在いて、過去最高の数である。
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2011年12月31日
2011年12月29日
今日のバイボー(87)
「祭司職が変われば、律法も必ず変わらなければなりませんが。」ヘブル7:12。
日本人である私たちがアメリカに行って、車を運転した場合、
日本と同じように左側通行で走らせると、大変な事になりますね。
なぜなら、アメリカは日本と違い、右側通行だからです。
クリスチャンの中には、これと同じことをしようとする人がいます。
つまり、旧約のレビ系の律法は終わっているのに、
今でも十戒のような旧約の律法を守る必要があると考え、
レビ系の下に生きている場合があるからです。
もう、旧約の律法は終わったのです。
今はメルキゼデクに等しいキリストが祭司となって、
いのちの律法に変わりました。
自力では良い行いのできない私たちに変わって、
キリストが祭司として、私たちを神に受け入れられる者にして下さいました。
この優れた祭司によって、私たちは何の良いわざが一つもなくても、
神に義とされます。
間違ったルールに縛られないようにしましょう。
日本人である私たちがアメリカに行って、車を運転した場合、
日本と同じように左側通行で走らせると、大変な事になりますね。
なぜなら、アメリカは日本と違い、右側通行だからです。
クリスチャンの中には、これと同じことをしようとする人がいます。
つまり、旧約のレビ系の律法は終わっているのに、
今でも十戒のような旧約の律法を守る必要があると考え、
レビ系の下に生きている場合があるからです。
もう、旧約の律法は終わったのです。
今はメルキゼデクに等しいキリストが祭司となって、
いのちの律法に変わりました。
自力では良い行いのできない私たちに変わって、
キリストが祭司として、私たちを神に受け入れられる者にして下さいました。
この優れた祭司によって、私たちは何の良いわざが一つもなくても、
神に義とされます。
間違ったルールに縛られないようにしましょう。



