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2012年05月18日

今日のバイボー(170)

「すると、その農夫たちはこう話し合った。
「あれはあと取りだ。さあ、あれを殺そうではないか。
そうすれば、財産はこちらのものだ。」そして、彼をつかまえて殺してしまい、
ぶどう園の外に投げ捨てた。」マルコ12:7。


農夫たちが、跡取りの息子を殺す理由は、

管理を任されたはずのぶどう園を自分たちのものにしたいゆえです。

このたとえは遣わされた御子イエス様を、

十字架につけた指導者たちのことです。

イエス様が登場したおかげで、彼らの既得権益は脅かされていたのです。

私たちの人生は、イエス様から管理するように任されたものです。

それを自分のものにしたいために、

イエス様を自分の生活の領域の外に放り出してしまうことはないでしょうか。

そのような人生を送る人の結末は惨めなものです。

生活のどの領域においても、イエス様の栄光が現れるように、

イエス様をお迎えして、

良い実を結ぶように、今日も歩みましょう。  

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2012年05月17日

今日のバイボー(169)

「そして、イエスに言った。『何の権威によっ て、
これらのことをしておられるのですか。 だれが、あなたに
これらのことをする権威を授けたのですか。』」マルコ11:28。


イエス様に神殿の商売人を追い出されたことによって、

烈火の如く怒った指導者たちは、

「何の権威によってこんなことをやるのか?」と質問しました。

彼らは神殿を自分たちが所有者で自分たちの権威で治めていると思っていました。

「俺たちの縄張りを好き勝手に荒らすんじゃない」と恫喝しているわけです。

しかし、よく考えてみますと、

神殿はイエス様のためにあって、所有者もイエス様にあります。

ご自身の宮をきよめたにすぎません。

私たちは自分の人生を自分のものだと勘違いしていることがあります。

「自分の人生、自分の好きなように生きて何が悪い」と開き直ります。

しかし、私たちはかつては罪の奴隷で、

悪魔の支配下にあって、滅びを招く存在でした。

私たちの所有者は悪魔にあったのです。

しかし、今はイエス様によって買い取られて、義の奴隷になりました。

つまり、所有者は神様です。

私たちは自分の人生を自分の好き勝手にできなくなりました。

神様は私たちの欲にまみれた心をきよめます。

そのためには、厳しい取り扱いもあるでしょう。

ご自身が買い取った宮を聖とするために、愛ゆえそうされるのです。

私たちはそれを理解できないで、パリサイ人たちのように、

「何の権威によって、私にこんなことをする?」と不満を言います。

主はご自身の栄光のために、

私たちがきよい生きた供え物となるために、そうするのです。  

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2012年05月16日

今日のバイボー(168)

「そして、彼らに教えて言われた。
「『わたしの家は、すべての民の祈りの家と呼ばれる』
と書いてあるではありませんか。それなの に、
あなたがたはそれを強盗の巣にしたのです。」マルコ11:17。

イエス様が商売人や両替人を追い出した場所は、

異邦人の庭と呼ばれる場所でした。

異邦人は神殿の中に入れませんでした。

それでも異邦人の中にはイスラエルの神を求める人がいたのです。

そんな彼らが神様を礼拝するために許された唯一の場所が、

この異邦人の庭でした。

異邦人を見下していたユダヤ人は、

この庭を自分たちが占拠して、商売を行っていました。

また、近道として横切る通路に使っていました。

こんな騒がしい場所で礼拝できるでしょうか?

イエス様はこの場所は祈りの家と呼ばれないといけないと言いました。

今、私たちが神殿です。

神を礼拝するために時間や場所を確保しているでしょうか。

主と交わる大切な場所と時間がテレビやおしゃべりが占拠していないでしょうか。

祈りと呼ばれるあなたの心の領域が他の何かに占拠されていないか気をつけよう。  

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2012年05月15日

今日のバイボー(167)

「そこで、ろばの子をイエスのところへ引いて行って、
自分たちの上着をその上に掛けた。
イエスはそれに乗られた。」マルコ11:7。


以前、ロバの競争をテレビでやっていました。

競馬の迫力とは違い、ロバの競争はあまり競争になっていませんでした。

お互いに体が密着してぶつかりそうになると、

ロバは相手にコースを譲り合うのです。

まったくレースになりません。

ロバという動物は本当に優しく、柔和なんだと思わされました。

イエス様は本来、ユダの獅子であり、王の王であられる力あるお方です。

そのお方が、柔和な王として来られました。

自らの力で相手を打ちのめすのではなく、

十字架という敗北を通して、救いを成し遂げました。

私たちはこのイエス様をお乗せして、人生をともにしているのです。

私たちの人生も競争の生き方を捨てないといけません。

自分が高くされること、成功すること、誰かを打つ負かすことなど。

私たちはむしろ、低くされ、負けて、だまされることに甘んじるのです。

すると、十字架の力が私たちに働いて、

主は私たちに愛の勝利を与えられます。

ちいろばの生き方を身につけよう。  

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2012年05月14日

今日のバイボー(166)

「すると、盲人は上着を脱ぎ捨て、すぐ立ち上がって、
イエスのところに来た。」マルコ10:50。


同じ会社の中に何年もいると、

会社の問題が見えなくなってしまう場合があるそうです。

それを新人社員が気づいたりします(その新人もいつか見えなくなります)。

人間は経験や実績を重ねるてくると盲点ができて、

物事の本質が見えなくなることがあるのです。

盲人はイエス様に呼ばれて、目を開くことを願いました。

その信仰とおりになるようにと、

イエス様が言われた時、目が開かれました。

この目が開かれる体験の前に、

この男が上着を脱ぎ捨てたことに注目したいのです。

上着とはその人の考えとか心の核心部分と言えます。

私たちが目が開かれ、ものごとが本当の意味で見えるようになるようには、

まず、自分の積み上げたものを脱ぎ捨てて、

キリストを着ないといけないのです。

先入観や経験、いろんなものが邪魔になっている場合があります。


あなたの脱ぎ捨てる上着は何でしょう。  

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2012年05月11日

今日のバイボー(165)

「イエスは言われた。『まことに、あなたがたに告げます。
わたしのために、福音のために、
家、兄弟、姉妹、母、父、子、畑を捨てた者で、
その百倍を受けない者はありません。』」マルコ10:30。


金持ちの青年は、自分の財産を惜しんで、

イエス様の下から去って行きましたが、

ペテロたちはすべてを捨てて従って来ました。

ちょっと誇らしく思ったペテロたちは、

その犠牲に対して、どんな報いがあるのか?

とイエス様に尋ねたのです。

イエス様は、「いやらしいぞ」とか「あつかましい」とか言われませんでした。

イエス様に従う人にはこの世でも天国でも

大きな報いがあると約束されたのです。

イエス様は神の報いについては、はばからずに約束します。

なぜなら、見えない神の報いを本気で信じて、

それを求める人が少ないからです。

有名な心理学者スコット・ペックは、

今さえよければ良いという風潮が人を病ませる。と言いました。

未来の良きことのために、今を忍耐することはとても大切です。

人に愛されるより、愛すること、

人に持ち上げられるより、人に仕えること、

受けるより、与えること。

このような難儀な道を選択して、イエス様に従って行く時、

私たちに大きな報いが返って来ます。

イエス様の約束を信じる人は幸いです。  

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2012年05月10日

今日のバイボー(164)

「イエスが道に出て行かれると、ひとりの人が 走り寄って、
御前にひざまずいて、尋ねた。
『尊い先生。永遠のいのちを自分のものとし て受けるためには、
私は何をしたらよいでしょうか。』」マルコ10:17。

突然、イエス様の前に現れた一人の男性。

別の福音書では金持ちの青年とあります。

この青年は裕福であっても、品行方正で、とても誠実な人だとわかります。

パリサイ人たちが自分のメンツばかり気にして

イエス様に下に来ることができなかったのと比べて、

この青年は、イエス様に近づいて、跪いて懇願しています。

その態度が偽りではなく、心から願い出たことがわかります。

彼は小さい頃から律法を守ろうと努力して、

お金持ちなのに怠惰な暮らしを拒みました。

現代の教会で例えるなら、

立派な役員で、献金もよくやり、人の世話もする誠実な信仰者です。

どこの教会でもこのような信徒がいれば助かると思うでしょう。

しかし、彼は悲しみながら去って行ったのです。

彼がイエス様から去ったと言うより、イエス様が彼を拒絶したのです。

私たちは表面的に立派に見えたら、素晴らしい信仰者だと思って、

神様も彼を受け入れてくれると思いますが、

そうではありません。

事実、イエス様は品行方正の彼を受け入れませんでした。

彼の心に貪欲があるのを問題にする解釈もありますが、

私たちだってわずかな貯金でさえもささげることを惜しむのではないでしょうか。

貪欲が焦点ではないと思います。

彼は自分の行いを立派にすることに集中していました。

彼は化粧を塗りたくった女性のように、表をきれいに固めていました。

しかし、イエス様が問題にするのは、素の人間です。

誰も神に受け入れられる人間はいないのです。

ただ、「主よ、あわれみたまえ」

とイエス様に希望を置かない限り不可能なのです。

イエス様にどのように近づくか、注意が必要です。  

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2012年05月09日

今日のバイボー(163)

「まことに、あなたがたに告げます。
子ども のように神の国を受け入れる者でなければ、
決してそこに、入ることはできません。」マルコ10:15。


子供は純粋無垢とよく言われますが、

イスラエル人の中で「子供のように」と言う時、

それは無価値な者、弱い者、取るに足りない者の象徴です。

経験もなく、自分で生きることができない、

親の扶養によって養われる存在です。

霊的にも幼子のように生きている人は、

自分を誇ることがなく、

神なしでは自分は成り立たないことを自覚しています。

社会的には自立して立派な大人になるのは良いことですが、

神様からも独立しないように気をつけよう。

私たちは生涯、神様の御前では幼子として、神様により頼む存在です。

「わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。
人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、
そういう人は多くの実を結びます。
わたしを離れては、
あなたがたは何もすることができないからです。」ヨハネ15:5。

私たちはイエス様を離れては何もできないのです。

何も・・・です。

この自覚がある人は幸いです。  

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2012年05月07日

今日のバイボー(162)

「わたしたちに反対しない者は,わたしたちの味方です。」マルコ9:40。

イエス様が御名の権威によって、悪霊を追い出している所を見て、

別のグループの人たちが真似をして、

イエス様の御名を使って同じように悪霊を追い出していました。

これを見た弟子たちは、

「私たちの仲間ではないのでやめさせました。」と言うのです。

弟子たちのキャパシティはイエス様とその弟子たちまでがかかわれる範囲でした。

しかし、イエス様は自分に敵対しない限り味方だと言います。

ご自分の御名を使うなら味方に入ると言うことです。

とても心が広いですね。

私たちの心がどれだけ自由にされているかは、

どれだけいろんなタイプの人を受け入れられるかでわかります。

束縛がある人はその同じ束縛をもった人を受け入れられません。

心が自由になるには、いろんな人を受け入れるように努めることです。

信仰においても、いろんな教団教派、いろんなグループがあります。

信仰の色は違っても、イエスの御名をあがめるなら、仲間なのです。

いろんな人とかかわって,

あなたの心の畑を耕そう。  

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2012年05月02日

今日のバイボー(161)

「それから、イエスはもう一度彼の両目に両手 を当てられた。
そして、彼が見つめていると、 すっかり直り、
すべてのものがはっきり見えるようになった。」マルコ8:25。


私たちは現実が見えていないので、

問題を解決することができなくなっていることがあります。

ある女性の方が、家庭に問題を抱えていたため、

たまらなくなって、ある3泊4日の修養会に参加しました。

そこで神様を求めて解決を見つけるためでした。

誰も知り合いがいない中で一人ぽつんと座っていると、

一人のご婦人が近づいて来ました。

いろいろ、質問されたり、どうでもいい世間話を延々と話し始めました。

修養会の間、このご婦人に捕まっては相手をさせられました。

最終日になっても解決はなく、

焦り出した彼女は一人庭に出て、神様に祈っていました。

「神様、私の問題に解決を与えて下さい」

そう祈り始めて間もなくして、

例のご婦人がまた、近づいて来ました。

そして、いつものようにペチャクチャしゃべり出したのです。

この4日間が無駄のように思え、

答えを下さらない神様にも腹立たしい気持ちになりました。

その時、神様の声がしました。

「これがあなたですよ。」

目の前にいるおしゃべりのご婦人を指して、そう語られたのです。

今まで問題は夫や子供にあると考えていました。

しかし、自分が家族の気持ちを聴いて上げたり、

受け止めることなく、一方的に話して、押し付けていたこと。

そのことに目を開いて下さったのです。

彼女は初めて、現実が見えるようになったのです。

今朝も「私の目を開いて下さい」と祈り求めましょう。  

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2012年05月01日

今日のバイボー(160)

「かわいそうに、この群衆はもう3日間もわたしといっしょにいて、
食べる物を持っていないのです。」マルコ8:2。


群衆はイエス様と3日間一緒に過ごしていました。

みことばを学んだり、いやしを受けたり、

充実した3日間でした。

あまりにも充実して、その間寝食を忘れるほどでした。

人が一番、幸せだと感じるのはどんな時でしょう?

それは何かに夢中になっている時だと思います。

その対象に打ち込むことですべてのことを忘れて、

没頭できること。

これが素敵だと思います。

ある調査によると、

文系と理系では、理系の人が幸福感が高いそうです。

理由は、理系の人は自分の専門分野に進んで、

仕事に満足している人が多いそうです。

機械いじりとか、開発、研究とか、

自分が好きなことを職業にしているからです。

それはやらされているからとか、

お金のためと言うより、

好きで夢中になれるから。

私たちがイエス様に出会うなら、

夢中にならないはずはないでしょう。

こんな魅力的なお方ですから、このお方を知りたい、

もっと触れ合いたいと願わない人は、

まだイエス様を本当の意味で知らないのではないでしょうか。

小さい頃、公園で日が沈むのも忘れて、夢中に遊びましたね。

思い煩いやストレスとは無縁で、ただ、その時を楽しく過ごしました。

そのような心が大人になるにつれて、失われて行きます。

夢中になる人生を取り戻したいものです。

イエス様に捉えられて、夢中になる人生。これが一番の幸せです。  

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2012年04月27日

今日のバイボー(159)

「まことに主は、ご自分の偉大な御名のために、ご自分の民を捨て去らない。
主はあえて、あなたがたをご自分の民とされるからだ。」Ⅰサムエル12:22。


イスラエルの民は神様に信頼することをせずに、

王様を求めるという罪を犯しました。

そのことでサムエルに赦しを請いました。

その時、サムエルの言った言葉です。

神様はイスラエルの民を決して見捨てることはしない、

と言うことです。

なぜ見捨てないのでしょう?

彼らが悔い改めたからでもなく、

彼らが良くなることを期待しているからでもありません。

イスラエルはこれからもずっと悪です。

神様がイスラエルを愛する理由は、

その御名のためです。

主は慈しみと哀れみの神であり、

弱く罪深い者を愛して下さいます。

イスラエルは特に弱い民族でした。

その彼らをあえて愛したのです。

彼らを救っておいて滅ぼすことはしません。

神様が彼らを愛すると決め、救うと決めたので、

彼らは大切にされて、義と導かれるのです。

「私を救って下さい」「祈りを聞いて下さい」

そう熱心に求めるから神様は応えるのではありません。

すべては神様の偉大な御名のゆえに私たちを助けるのです。

「したがって、事は人間の願いや努力によるのではなく、
あわれんでくださる神によるのです。」ローマ9:16。


大切なのはあなたが頑張ることではありません。

御名を信頼することです。

この御名に私たちの運命はかかっています。

神様はご自身の偉大な御名のゆえに私たちを導かれます。  

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2012年04月26日

今日のバイボー(158)

「今は小麦の刈り入れ時ではないか。だが私が 主に呼び求めると、
主は雷と雨とを下され る。あなたがたは王を求めて、
主のみここ ろを大いにそこなったことを悟り、
心に留めなさい。」Ⅰサムエル12:17。


イスラエルはエジプトの奴隷時代から、

いつでも苦しみの中で神様の助けがありました。

それなのに、彼らは神様で満足できず、王様を欲しがりました。

それは神様のみこころに反することでしたが、

それでも神様は民の願いを聞いて、そのことを許容されました。

それでサムエルは、同じことを何度も繰り返して、

二度と神様に逆らわないようにと警告しています。

神様は私たちの自分勝手な行動も時には許容されます。

全部、裁くなら私たちはとっくに滅びているからです。

ですから、神様の御前に罪を犯し続ける罪深い存在であることを

自覚しなければなりません。

私たちが今、当たり前に生きていられるのも、

自分の行いが正しかったからではなく、

私たちの背きの罪を、私たちの気づかないところで、

赦し続けている神様がおられることを心にとめて、

神様に御前にへりくだって、

これ以上、罪を犯さないように歩むのです。

今、生きているのは恵み以外のなにものでもないことを知ろう。  

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2012年04月25日

今日のバイボー(157)

「サウルがこれらのことを聞いたとき、
神の霊がサウルの上に激しく下った。
それで彼の怒りは激しく燃え上がった。」Ⅰサムエル11:6。


前回、荷物の間に体を丸めて隠れて,臆病であったサウルが、

仲間であるヤベシュの人たちの危機を聞いて、

神の霊によって激しく燃え上がりました。

そして、イスラエル人数十万を率いて、

敵のアモン人をやっつけました。

まったく人が変わったようなリーダーシップです。

私は多くの青年が神様に献身すると決心して、

神学校に行ったのを知っています。

中には「この人は大丈夫か?牧師に向いているのか?」

と心配してしまうような人もいました。

しかし、数年間、勉強した後、会ってみると、

本当に人が変わったように牧師らしくなっています。

その時、思いました。神様がご自身の働きのために、

人を召して用いる場合は、

ご自身が賜物を与え、

聖霊によって整えて下さることを。

あなたに神様からの使命が与えられた時、

自分には無理だと思えるようなことでも、

神様が用いるなら整えて下さるのです。

私たちに必要なのは、素直に神様に招きと導きに従うことです。

自分が考えた以上のことを

神様はあなたの上に行って下さるでしょう。  

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2012年04月24日

今日のバイボー(156)

それで人々がまた、主に、『あの人はもう、 ここに来ているのですか』と尋ねた。
主は、『見よ。彼は荷物の間に隠れている』と言われた。」Ⅰサムエル10:22。


王を決めるくじは、サウルを指名しました。

その時、サウルは荷物の間に隠れていました。

使命から逃げようとする臆病なサウルです。

この態度はサウルという人物の象徴的姿です。

サウルは自分に勢いがある時は、自信に満ちあふれて、

王としてワンマンなほど、人々の上に君臨します。

実際に彼は有能な指導者でありました。

しかし、ある女が「サウルは千人、ダビデは万人を打ち倒した」

と自分よりもダビデを評価すると、激しい嫉妬と落ち込みを表します。

サムエルに拒絶された時も、霊媒師の家に行くほど、迷路にはまります。

ある時は有頂天になり、ある時は落ち込みます。

そのような不安定な理由は、サウルが神様とつながっていないからです。

人にほめられたり、物事がうまく行く時は、肩で風を切って歩いています。

しかし、人に評価されなかったり、

自分の思い通りいかない時は落ち込み、自信を失います。

それは全部、自分を柱として生きているからです。

サウルは自惚れの強い人なのです。

そこがダビデと大きく違うところです。

自分ばかり見つめている人は、

とてもナイーブで落ち込みやすいのです。

ダビデのように神を見つめている人は、

自分に能力がなくても、

大胆で、ゴリアテが相手でも尻込みすることはありません。  

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2012年04月20日

今日のバイボー(155)

「しかし、サムエルはサウルとその若い者を広 間に連れて入り、
三十人ほどの招かれた者の上座に彼らを着かせた。」Ⅰサムエル9:22。


当時、サムエルはイスラエルの指導者として、権威を持つ人でした。

そのサムエルがベニヤミン族の若者であるサウルを上座に座らせました。

サムエルは王様になる未来のサウルとして扱っているのです。

アメリカでの実験で、ある小学生の女性教師に、

「これからあなたが担任になるクラスは、

この学年でIQの高い子供だけを集めたクラスです。」と伝えました。

実はそれは真っ赤な噓で、

じっさいはランダムに選んだ生徒たちだったのです。

1年後に調べてみますと、

そのクラスは学年でダントツの成績を残す子供たちになりました。

なぜ、成績が飛躍的に上がったのでしょう。

それは、先生が、優秀な生徒たちを預かったと信じて、

丁重に扱い、その能力を尊重して子供たちに接したからです。

私たちが日頃、相手する兄弟姉妹たちは、

神様の愛する尊い神の子です。

お互いに神の子にふさわしく扱えば、

ますます神の栄光が現れ、

神のみこころを実現する人として成長していくでしょう。  

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2012年04月19日

今日のバイボー(154)

「サウルは答えて言った。
「私はイスラエルの 部族のうちの最も小さいベニヤミン人では ありませんか。
私の家族は、ベニヤミンの 部族のどの家族よりも、
つまらないもので はありませんか。
どうしてあなたはこのようなことを私に言われるのですか。」Ⅰサムエル9:21。


前回、サウルはイスラエル人が求める通りのハンサムな青年であったと言いました。

しかし、それでもイスラエルという国を治めさせるので、

ハンサムだけでは選ばれません。

神が選ぶ王の基準は、「謙遜」です。

サウルは後に不信仰になりましたが、当初はへりくだった人でした。

そして、何よりも彼がベニヤミン族出身ということです。

ベニヤミン族は初めはとても強かったので、

調子に乗りすぎて、他の10部族と戦って

絶滅の危機に立たされました(士師記20章〜)。

それ以来、落ちぶれて、ペシャンコにされた部族でした。

彼らのプライドはズタボロでした。

きっと、サウルも自分の部族を名乗るのも恥ずかしい気持ちであったはずです。

そんな弱くされたベニヤミン族から神様は王を選びました。

私たちもプライドをくじかれ、惨めにされる時、それは幸いです。

なぜなら、その時こそ神様の目に尊く、用いられるのです。

神様の基準はこの世とは違うのです。  

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2012年04月18日

今日のバイボー(153)

「キシュにはひとりの息子がいて、その名をサ ウルと言った。
彼は美しい若い男で、イス ラエル人の中で彼より美しい者はいなかっ た。
彼は民のだれよりも、肩から上だけ高かった。」Ⅰサムエル9:2。


前回、サムエルに王様が欲しいと願ったイスラエルの民の要求を、

本意ではないにしても聞き入れることになりました。

それで、白羽の矢が立ったのが、サウルでした。

ご存知のように、このサウルは後に神様に反抗して、

イスラエルを不幸にして、悲劇の死を遂げる人物です。

イスラエルの初代の王ではありますが、

本当にみこころにかなったイスラエルの王はダビデなのです。

それではなぜ、神様はサウルを王にしたのでしょうか?

それはイスラエル人が求めている王がサウルのような人だったからです。

サウルは金持ちで名家の出身のサラブレットです。

誰よりも背が高く、誰よりもハンサムで、

人が憧れるすべてを持っていました。

つまり、神様は、イスラエルに必要な王ではなく、

彼らが納得する王を立てたのです。

もし、他の誰かならイスラエル人は納得しないで、

受け入れなかったでしょう。

例えるなら、結婚するのに、容姿や家柄、貯金など、

自分の好みで決める結婚のようです。

このような結婚は悲劇になるのです。

人はうわべしか見ません。

しかし、神様は心を見ます。

あなたの人生はあなたがオーダーしたものが与えられます。

あなたが欲で生きているなら、

その欲に従って、人生が作られて行きます。

あなたの心が神様に向けられ、

神様の願うことを求めているなら、

そのような人生になって行きます。

大切なのは心に何が占めているかです。  

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2012年04月17日

今日のバイボー(152)

「その日になって、あなたがたが、
自分たちに選んだ王ゆえに、助けを求めて叫んでも、
その日、主はあなたがたに答えてくださらない。」Ⅰサムエル8:18。


昨日、人間が求めるものが、みこころにかなわないものでも、

神様はある時は許容して下さると言いました。

しかし、そのみこころにかなわないものを得た時に、

その代償もあります。

イスラエルの民は、神様ではなく、王様という人の統治を求めました。

その代わりに、王様は民の家畜や作物を年貢として取り上げます。

戦争になると子供たちを徴兵して兵役につかせます。

誰かを王に立てた日から、王の命令には逆らえません。

王を迎えた日から、民は王に支配されるのです。

後で後悔してもその関係を簡単には変更できません。

何よりも一番、悲しいのが、

神様はイスラエルの民の助けを聞いて下さらないと言うことです。

なぜなら、神様は彼らの主ではなく、王様が彼らの主だからです。

人は二人の主人に仕えることはできません。

神様ではなく、人間に依存して生きる人は、

神様の助けを期待することはできないのです。

神様を自らの王にするか、人に寄りかかるか、

どちらが本当の助けになるか、

よくよく考えて選択する必要があります。  

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2012年04月16日

今日のバイボー(151)

「今、彼らの声を聞け。ただし、彼らにきびし く警告し、
彼らを治める王の権利を彼らに知らせよ。」Ⅰサムエル8:9。


サムエルは偉大な士師でありますが、

その息子たちはなぜか、不信仰者です。

それで、民は代わりに王を求めました。

「他の国民のように」王が欲しいと言っています。

これは神様に信頼するのではなく、

この世の制度や方法で切り盛りしようとする間違った動機です。

王を求めたのでサムエルも怒りましたし、

それは神様に反抗することでした。

しかし、神様はその願いを聞き入れなさいとサムエルに言っています。

みこころではないのに受け入れたのです。

私たちの人生のある部分は神様のみこころに従っているものではないのに、

私たちが欲しいので勝手に手に入れて、

それを神様が許容して下さったものがあるはずです。

仕事、結婚、家、他にもいろいろ小さいことでも。

しかし、許容したからと言って、それはベストではないのです。

神様のみこころは私たちにベストのものですが、

私たちが欲しいものは、後で私たちの災いになることが多いのです。

イスラエル人は王を求めたために、王に摂取されて、支配されました。

私たちは自分の選択の責任を取らされるのです。

ですから、私たちのベストである、神のみこころを最初から求めて、

みこころの通りに生きる人生が一番、幸いですね。  

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